「新人の皆さん、入社おめでとう。明日からの研修、頑張ってくださいね」
壇上で笑顔を振りまく採用担当のおじさんと、肩に力が入ったリクルートスーツたち。

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入社式の手伝いに若手3人で駆り出されたはいいものの、25度を超える気温で私たちはすっかり参ってしまっていた。
「ずっと在宅勤務なのに正装出社はさすがに厳しいよねえ」
「熱中症出るんじゃないの、新人さんだってあんなに緊張して」
「大体屋外でやる必要がよく分かりませんよね」
それな、と答えながらスマホを開く。午後イチの打ち合わせの連絡が来ていた。新人から見えないように返事を入力し、送信。
「業務は少しずつ覚えていきましょう。やる気と元気がいちばん大事です」
このおじさん担当者は毎年、判で押したように同じ言葉を繰り返している。採用課に代々受け継がれる台本でもあるのだろうか。

熱がずっと脳にこもっている感覚で、午後の打ち合わせに全く身が入らなかった。いっしょに入社式に出ていた後輩は、会議後すぐにオフィスの椅子を3つ占領して寝転がった。
口が悪く生意気で、技術力は平均を少し上回る程度。メンターを務めた関係で、2年上の私にはよく懐いてくれている。
「フリーアドレスってこのためにあるんすよ、先輩。右隣も左隣も出社してねえし」
「やる気があるフリくらいすれば」と私は笑った。
「体勢とやる気は関係ないんで」
昼寝します、と言ってすぐに10分のタイマーをセットしておでこの上に置き、後輩は目をつぶった。
「俺の場合、やる気ってゲシュタルトなんすよ」

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彼が何を言ったのか、私はよく分からなかった。しかし分からないなりに、発言が心の隅に引っかかった。
やる気がゲシュタルトだというなら、やる気がない状態は所謂ゲシュタルト崩壊と捉えられるのだろうか。
キーボードを叩く手を止めて、レモンティーを口に含んだ。椅子で眠る後輩を横目に、掃除のおばさんが通り過ぎてゆく。
ゲシュタルト崩壊。語感にはどことなく大人びた響きがある。初めて知った時は、なんの必殺技かと思ったものだ。
辞書では次のように定義される。
「ゲシュタルト崩壊:姿かたちが壊れ、個々の構成部品に切り離されて認識されてしまう現象全般を指す」
たとえば、特定の漢字をずっと書き取りしている時。ひとつの図形をじっと見ている時。「この字、こんなだったかな」と違和感を覚えた経験があるだろう。継続的に同じ刺激が与えられることで、見ているはずのもの全体を知覚することができなくなる。

毎月同じ仕事を繰り返す。同じお客さんに会い、同じものを売る。同じ道を歩く。同じ上司と、同じ部下と、同じプロジェクトをずっと続ける。やがて全体を認知できなくなり、迷宮の中で途方にくれる。
仕事ってこんなだったっけ?
一度ゲシュタルト崩壊に気が付くと、もういけない。後輩はきっと、そういうことが言いたいのだろう。

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レモンティーを飲み干してしまった。口紅を塗りなおそうと、こっそりコンパクトを開けた。鏡の中で右目が大写しになる。
ふと思い立つ。変わらない刺激に慣れて起こるゲシュタルト崩壊は、仕事以外でもありうるのではないか。
同じ音楽を聴く。同じ朝ごはんを同じ時間に食べる。同じ家で過ごす。同じ時間に寝る。同じ顔で、同じ体で、同じ目で同じ耳で同じ声で同じ手足で同じ脳みそで。
それ以上考えるな、と鏡の中の自分が警告を出す。しかし止まらない。合わせ鏡のようにどんどん思考が増殖する。
季節は毎年同じようにめぐる。今朝と同じ式を経て、新人は毎年入ってくる。同じ春、同じ夏、同じ秋、同じ冬、同じ朝、同じ夜、同じ私、同、同、同、同……。

ピピッ、ピピッとタイマーが鳴り、私は一瞬で現実に引き戻された。
「よーし、頑張るか……え、先輩? 顔色やばいすよ」
寝ていた後輩が体を起こし、タイマーを止めた。
「なんか、やる気について考えてたら気分悪くなってきたわ」
「まじすか。それたぶん熱中症ですよ、室内でもなるって言うし。水持ってきます」
ぱたぱたと給湯室に向かう背を眺めた。
入社当時からずっと面倒を見ていた後輩であるが、最近しっかりしてきて頼れる言動が増えてきている。
同じことを繰り返す暮らしの中で、少しでも違いや成長を見つけることがやる気を出す秘訣かもしれない。
そんなことを考えながら、私は口紅をいつもより濃くひいた。