「私は先輩」必死に自分に言い聞かせていた。高校三年間のバレーボール生活、消えない苦しさを必死に明るい言葉で覆い隠した。

「自分もこんな先輩たちみたいにかっこよくなりたい」そんな思いで選んだのは、自分の実力に見合わない県内屈指の強豪校。県大会の上位に並ぶような中学校出身の有名選手たちの中に立ち、周りと比較してはいつも自信を無くしていた。「入る高校間違えた」毎日頭の中は後悔だらけ。この環境から逃げられないものかと何度も考えた。

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そんな自分を変えてくれたのは後輩たちだった。「私もこの高校で出会った先輩方に憧れて入学したように、今度は自分が後輩たちにかっこいい姿をみせなきゃ」そんな思いに立った時、気づけば弱音が消えていた。

「後輩のため」と思ったら、限界と感じた先のもう一歩が自然と踏み出せる。相変わらず自分に自信は無かったが、「チームスポーツなのだから自信のなさを隠す責任がある」「自信のある振りをするのも実力のうち」だと考えるようになった。

いつまで経ってもレギュラーになれない。Aチームに入りたい。そんな悔しさを越えるぐらい、Bチームで後輩とコートに立つのは楽しかった。一つ一つのプレーを互いに褒め合い、一点が決まったら十点分のガッツポーズをする。「コートの中に自分が一人いるだけで周りが明るくなる、太陽のような先輩でいたい」そんな思いが自分を強くした。

憧れの先輩たちの背中を見てきた自分だから、後輩たちにしてあげられることは何でもしてあげたい。そう思って関わってきた。夜遅くまで体育館に残ってやった自主練、泣きながら思いを打ち明け合ったミーティング、初めてAB戦でAチームに勝った日。

引退する日、これまでの部活動での時間を振り返ると、後輩との思い出ばかりだった。

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そして、気づいた。
「育ててもらったのは自分の方だった」

自信がなく、いつも弱気だった私。それなのに、いつしか堂々とチームを引っ張り、コートの中で笑えるようになった。それは、紛れもなく後輩たちのおかげだった。私は、後輩に育てられたんだ。年下だけど、そんなの関係ないくらい心から尊敬できる彼女たちに感謝の思いが溢れた。

情けない先輩だったけど、笑顔で振舞っていても、内心ずっと怖さと戦っていたような私だったけど、そんな私を、「先輩」にしてくれた後輩たちに、心からありがとう。
責任を負うと人は強くなる。特に私は、責任を負ってこそ120%の力を出せる人間なんだ。
そう学んだ三年間だった。

しかし、その学びは大学生活一年目にして覆される。
大学では部活や大学祭の実行委員会など、学内組織にたくさん所属した。そこで出会ったのは、今まで出会ったこともないような、温かさと後輩愛で溢れる先輩たちだった。

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体育会系育ちの私にとっては、あまりの近すぎる先輩後輩の関係性に戸惑うほどだった。もはや上下関係とは?と聞きたくなってしまうくらい、まるで兄弟のような関係。

先輩と話している中で言われた、忘れもしない一言がある。

「こんなに先輩たちからいろんなことを学ばせてもらって、それを自分は後輩たちに返していけるかな」と私が言ったのに対し、先輩は言った。
「人はもらったものしか返せない。だから、私たちが一年生に、みんなの心からあふれ出て、それが後輩たちに自然に届くくらいの愛を送るから安心して大丈夫だよ。任せな!」

そんなことを言ってくれる人間がこの世にいるのか。その瞬間、先輩に対する「怖い」「怒る」「厳しい」という既存のイメージたちが音を立てて壊れた。
この大学は「後輩愛」でできている。そう確信した。

そういってくれるのなら、先輩たちにとことん甘えられる大学一年生のうちに、学べる限りのことを学ぼうと決めた。少しでも先輩と話す機会があれば、インタビューばりに質問攻め開始。これまではちょっと距離のあった4年生にも遠慮はしない。

「後輩と関わる時に大切にしていることは何ですか?」その質問に対して何人かの先輩はこう答えた。
「ありのままの自分でいること」
私は高校まで、後輩の前で「あるべき先輩の姿」を演じることで自分の自信のなさを克服し、強くなってきた。と、思っていた。
私の経験上、先輩と後輩の関係はそういうものである。はずなのに、それなのに、「ありのまま」でいる先輩たちはどうもかっこいい。

後輩に良く見られたいとか、舐められないようにしようとか、そういった考えは微塵もない。取り繕わず、等身大の姿で、自分の思うことを率直に誠実に語る。
後輩に対して「上から目線」で接することなど決してない。隣に立って、同じ方向を見て、後輩のペースに合わせて一緒に歩いてくれる。そんな先輩たちを心から尊敬した。

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今私が「かっこいい人ってどんな人だと思う?」と、聞かれたら迷わずこう答えるだろう。
「かっこつけない人」と。

高校生の時の自分を今になって振り返ってみれば、素晴らしい経験をしたことは間違いないが、ため息をつく間もないほど、毎日必死だった。苦しかった。

「理想の先輩」を演じる義務を自分に課しては、周りから見られる自分の姿と、自分から見る自分の姿にギャップが生まれた。違和感がどんどん膨らんでいった。
自信のなさを克服したように見えていたのも、きっと虚像だったのではないかと思う。

自分に向けてきた、不自然なほど明るい言葉たち。

「絶対大丈夫」「私ならやればできる」
全部全部、麻酔のようなものだった。根拠がない自信で、一時的に自分を酔わせていただけだった。
だから、自分のことをいつまで経っても信用できなかったし、人からの誉め言葉を素直に受け取れないままだったのだと思う。

もうすぐ大学二年生になる。後輩ができる。私は、「先輩」になる。もう、理想の先輩を演じる自分はいない。他の何役でもない、私は「わたし」を生きる。「ありのまま」の姿で後輩と接する。自分と向き合う。そうすればいつか、自分で自分を「かっこいい」と心から言えるはず。

あの先輩のように。