あれは21歳になったばかりの夏の夜だった。私はその日、表参道からほど近い南青山の一軒家の玄関の前に立っていた。いかにも絵本に出てきそうな白亜の豪邸で、地下から屋上まであった。恐る恐るドアを開けると、爆音の音楽の中に、正体不明の声だか喘ぎ声だかを聞いた。
それは、リッチな家主が定期的に開催しているパーティーらしきものだった。大学の女友だちがなんとか人数を確保するために声をかけてきたことが、訪問のきっかけだった。
昔から好奇心旺盛でどこか危機感のない私は、「南青山のお家でやる飲み会」という言葉の華やかさに引かれて、二つ返事で参加することを決めた。
バイトが入っていたために、その屋敷に到着したのは23時前。
いざ扉を開けて飛び込んできたのは、人間のものなのか分からない声と爆音。そしておびただしい数の靴が脱ぎ捨てられた玄関。異国の匂いとしか表現できない独特な香り。
誘ってきた女友だちとは、その「飲み会」が始まったと思われる時間帯から連絡が取れなくなっていたため、どこに行けばいいのか分からなかった。
とりあえず……と地下の階段を降りる。 開けっぱなしの扉を見つけたものの、近づくことすら躊躇わせるセクシャルな声やら雰囲気が満ちていた。
そっと覗いてみると、案の定。薄暗いシアタールームのようなその部屋に数人が入り乱れていた。 こういう「飲み会」なのね、とやけに冷静に思ったことを覚えている。 物音を立てずにその場を離れた。
◎ ◎
しょうがないので地下1階の詮索は諦めて降りてきた階段を登る。
またあの大きな玄関を通ると、入ってきた時には背景でしかなかった脱ぎ捨てられた靴が目に入った。よく見ると女性ものの靴はどれもヒールが高く、履いている人物像が目に浮かぶ。そして女性ものより多い男性靴はどれも手入れの行き届いた革靴で、これまた履いている人の社会的地位が容易に想像ついた。
そこに私のナイキのスニーカーが居心地悪そうに並んでいた。 ヒントはここにもあったんだ、と帰るべきか悩み始めた。
玄関のドアは開けっぱなしだし、今ならまだ誰にも会っていないから確実に無傷で現実世界へ帰還できる。
でも、一生でもう二度と経験できないことだろうと謎に思い直して、今度は階段を登った。
2階にはいくつか扉があったものの、一番奥の開いている扉にそっと近づくことにした。
覗いてみると、これまた数十人が巨大なソファーに座ったり、キッチンカウンターに置かれた料理やらアルコールやらを口にしながら談笑している様子が目に入った。
すると、キッチンから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。綺麗に着飾った女友だちだ。
「なんでもっとオシャレしてこなかったのー」
すでに酔いが回っている彼女の小言を聞きながら、笑顔で彼女に近づいた。
その後から終電で帰るまでの数十分、私はキッチンを離れずにひたすら食べ散らかされた食器やら空き缶やらを掃除していた。
玄関までの経路を頭の中で何度も反芻し、鞄は常に体の側に置いていた。
聞こえてくる会話から、「飲み会」の概要を理解することができた。
バイト終わりの色気のない格好をしている私に声をかける人など誰もおらず、しまいには、ダイニングテーブルより「ワイン頂戴」と声が聞こえる。
「はーい」と元気に答えて、勝手に冷蔵庫にあった白ワインと適当に洗ったグラスを持っていく。
ワインを求めた恰幅の良い男が言う。
「あれ、俺今日バイト頼んだっけ?」
幸いにも、両脇にいる華やかな美女2人が私になど気に留めることなくクルージングの話に戻した。 どうやら、来月この男の所有している船でクルージングパーティーをする話をしているようだった。 私はテーブルの上の空いたグラスやお皿を片付けてまたキッチンへ戻った。
あの男の両手が美女たちの膝の上を撫で回していることを一瞥しながら。
◎ ◎
終電の時間が近づき、私は女友だちに声をかける。 私と彼女は、彼女が話していた正体不明の2人の男を連れて一緒に屋敷を出ることになった。 どうやらこういった「飲み会」ではお開きという概念がないらしい。
黙って荷物を持って消えても誰も気づかない。もはや、その屋敷に誰が出入りしたのか家主すら把握していないようだ。
私も一緒に駅へ向かっているのに、存在すら認識されずに、女友達とその2人の男性は楽しくおしゃべりをしていた。
大通りに出るタイミングで、歩幅を緩め、私は1本違う道から1人駅に向かった。
スニーカーを履いてきたことが功をなし、足早で駅に向かうことができた。あの3人に会うことはなく電車に飛び乗った。
帰りの電車、私はシラフの頭で考えた。 あの場所では名前すらいらない。そこにいる人の性別だけはっきり分かればそれでいいのだろう。
分かりやすく「私は女です」とアピールしていなかった私は、あそこでは唯一の黒子で、現実世界と繋がっていた存在だったのだと思う。 今ではこの話は笑い話だが、現在ジェンダーの勉強をしていることとの繋がりを感じずにはいられない。
今日も私はナイキのスニーカーで自由自在に走り回っている。「私は女です」と自認しながら。