精神疾患を高校生の頃に患ってからそろそろ10年経つ。症状そのもの以外で多くの精神病患者がしばしば苦しめられることの中に、周囲からの正しい理解が得られないことがあると思う。
「病は気から」。悪意のないこの言葉を投げかけられることは、私にとって我慢できないほどに悔しいことである。
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私は日々、双極性障害と闘っている。
病院の先生やカウンセラーさんから話を聞いたり、自分で勉強したりして、精神病は脳細胞がバグを起こして適切に働いていない状態だ、と私は認識している。好きなことをしても楽しいと感じられなくなるとか、疲れているのに寝付けないとか、生き物なのに死にたいと思う瞬間が多くあるとか、どれも治療を要する異常事態なのだ。
血が出たら止血しましょうとか、熱が出たら身体を温めて頭を冷やしましょうとか、そういうことと何ら変わりない。
それなのに私たち精神病患者はたびたび、「気の持ちようだよ」「そういうのって少なからず誰しもあるんじゃない?」などの言葉をかけられるのである。
彼らのほとんどは、悪意を持ってそういった言葉を発しているのではないということは、彼らの口調からもなんとなく分かる。
気持ちが比較的安定している時は、「いやいやこれは脳細胞が正常に作動していない病気なんだよ」と説明もできるけれど(分かってもらえるかは別の話である)、双極の鬱状態の時にこれを言われたりすると、大きなダメージを受ける。
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そうなのかな、みんな耐えられてることに私だけ耐えられてないのかな、甘えているだけなのかな、と思ってしまう。
家に帰ってからめそめそ泣く日もあれば、真に受けてもっと頑張らなきゃとか思って無理をして、反動で動けなくなることもある。
我慢ならない。
精神病が気の持ちようでどうにかなると思われていることにも、気の持ちようだよと言われて、安易にそうなのかな…と落ち込んでしまう自分にも。
我慢ならないと言っているだけでは埒が開かないので、対策をしたくてこの文章を書いている。
先ほど書いたように、気の持ちようだよと言われたら、できる限りは1ターンは反論する。
反論はとてもエネルギーの必要なことだし、場合によっては反論する前よりダメージを受ける可能性もある。
でも、もし説明して「そうなんだ」と思ってもらえたら、私自身や私に似たしんどさを持った人にとってより生きやすいように、私の言葉を使ってほんの少し世界を変えたことになる。
私たちにとって生きやすい社会を作るのは、その積み重ねだと思っているから、なるべく私は声を上げたいと思っている。
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そこで精神病に対して正しい理解をしてもらおうと思ったら、咄嗟に冷静に正しく簡潔な説明をしなくてはならない。
私は脳細胞のバグという言葉を今のところ便利だと思って使っているが、どうしたら分かってもらいやすいかは考え続けたいと思う。
もし1ターンの反論の後に理解が得られなかったら、自分の身の安全のために、その相手を自分の近くに極力置かない方がいいということになる。
生活や心の深いところに、その人をなるべく近寄らせたくない。
いくら自分では脳細胞のバグだと理解していても、近くに「いや、それは気の持ちようだよ」と思っている人がいて、その人と頻繁に会話をしなければならなくなったら、気の持ちようなのかもしれない、と思ってしまいやすい状態になるだろう。
自分で自分の病気に対する正しい理解をし続けるために、反論の精度と、関わる人選びは大切だと思うのだ。
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最後に精神疾患を公言することについてだが、私は全く抵抗がない。
公言すると、関わっていて自分の病気にとって有害になる人を炙り出せる。
それに、理解を示してくれた人ともより関わりやすくなると思う。
例えば体調不良でご飯の約束をリスケさせてもらわなければならない時、申し訳ない気持ちはあるけれど、あぁ、いつもの持病から来るやつね、と思ってもらえると、体調不良?どうした?と大袈裟に心配させるよりも、気持ちが楽になる。
我慢できない、などと言ったが、適切な理解をしてもらうことは簡単ではないし、当たり前のことでもない。
精神疾患について適切に理解をして、心配しすぎずしなさすぎず、適温の関係でいてくれる友人・知人には感謝してもしきれないし、そういう人たちをずっと大切にしていこうと強く思う。