あのとき、あなたのそばにいられたら。
あのとき、あなたにありがとうと伝えられていたら。
そんな後悔はこの5年半の間、尽きたことがない。
受験勉強に専念する冬のある日、「お母さんが倒れた」と連絡が
高校3年の冬、私は国立大への大学受験を控えていた。模試を受けるたびに合格率が変動し、結果に一喜一憂しながらも、自分の夢の実現のために努力した。
私には双子の姉がいて、高校まで同じ学校に通っていた私たちは、同じ大学の違う専攻を志望していた。2人そろって気を抜かずに勉強し、「いつも家で見るのは勉強する姿ばかりだね」と両親は半笑いしながらその努力を認めていた。
センター試験まで1か月を切ったころ、母が体調を崩して仕事を休んだ。職場で抱えていた大事な仕事を終えて、ホッとしたところからの風邪だと言っていたが、それにしても長く続く咳と発熱。
受験を控える娘たちにうつしてはいけないと、母1人で自分の部屋にこもっていた。当時県外で単身赴任していた父の力も借りることが難しかった。
その状態が1週間ほど続いて迎えたクリスマスイブ。私と姉は自分たちで朝の準備をし、母の部屋は開けずに、母と会話を交わすこともなく、いつも通り学校に向かった。
その日から冬休みの課外授業があり、大講義室で模試の解説を双子で隣り合って座って聞いていた時だった。講義中に私たちの肩を叩いた学年主任が、私たちを講義室の外に連れて行った。
「今、お母さんが倒れたと連絡が入ったんだよ」
聞くはずもないその言葉に、私たちは息を飲んだ。目の前が真っ暗になりそうな私たちを、先生は病院まで車で送ってくれた。
涙があふれ、にじんだ教科書の文字が今でも忘れられない
案内された病室にいたのは苦しむことなく、穏やかに眠っている母の姿。
それを前に医師が発したのは、残念ながら息を引き取りましたという衝撃的な一言。
自分で救急車を呼んで乗ったものの、救急車の中で息を引き取ったとのこと。
同じ家に住んでいるのに、約1週間ぶりに顔を合わせたのが亡くなった状態だなんて。悲しみよりも悔しさや信じられない気持ちが強く、思いっきり泣きたいのに涙が出なかった。
正直勉強どころではない状況だったが、父はここまでやってきたんだからと私たちに勉強を促した。火葬までの間、リビングに横たえていた母の遺体の脇にテーブルを置いて勉強を再開した。
勉強しながらも時々母との思い出が蘇ったり、母が好きだった曲がテレビから流れたりすると、目に涙があふれ、にじんで見えた教科書の文字が今でも忘れられない。
火葬や葬儀をする頃には気付けば年末になっていた。数日の間勉強する私たちの近くにあった母の遺体が、もう焼かれてしまう、永遠に見られなくなると思うと一気に悲しみがこみ上げ、文字通り号泣した。
高校卒業、大学入学、成人式、就職、結婚そして出産。娘の私たちがこれから迎える色々な節目を誰よりも楽しみにしていた母。
まだ恋愛をしていなかった私たちに、彼氏ができたらデートの服とかメイクとか教えるからねと張り切っていた母。
孫ができたらお世話するから遠慮しないでねとワクワクしていた母。
作ることが好きで、私たちに洋服やパン、ケーキを作ってくれた母。
常に明るい笑顔で、誰からも愛されていた母。
色々な母の姿が走馬灯のように蘇り、溢れる涙を必死で拭いながら送り出した。
仕事中も、家でも、いつでも私の近くには母の存在がある
年が明け、迎えた大学受験。無事に受験ができたことにまずひと安心した。結果として私たちは第1志望の合格はかなわなかったが、2人そろって自他ともに認める充実した大学生活を送り、きっと母が選んでくれた道なのだと思っている。
姉は私立大を首席で卒業し、夢だった高校の英語教師として日々奮闘している。
そして私は、母と同じ保育士として、母が愛したこの仕事のやりがいや楽しさを感じている。母が職場で身に付けていたエプロンを着て、子どもたちと関わる私の姿は、どこまで母に近づくことができているだろうか。
今では母の趣味だった料理や裁縫に私が夢中になっている。母の命日であるクリスマスイブにはケーキを作り、仏壇に供えることも毎年恒例になってきた。
仕事中でも、家で趣味に没頭するときも、いつでも私の近くには母の存在があるような気がする。
あのとき、私たちが家にいたら。
あのとき、ドア越しでも行ってきますと声を掛けていれば。
あのとき、いつもありがとうと伝えていれば。
尽きない後悔とともに、今日も母のような明るい笑顔で子どもと向き合う。