「成人」と調べると「心身が発達して一人前になった人」と出てくる。
"一人前"とは何なのだろう。その不確実な基準は何なのだろう。
成人を祝う催しが成人式であるなら、私は30歳になったら"三十路ん式"とでも名を付けて同級生を集めて祝いたい。

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私は正直、自分の精神年齢は18歳くらいで停止していると思っている。年齢を増すごとに色々な経験は増えても、私の思考パターンや癖の大部分に大きな変化がないことを感じるかぎり、私は偏った体験しかしていないだろうし、恋愛で言えば、恋をした時の胸の高鳴りに年齢的衰えや変化もないように感じる。

それを思うと、理論物理学者アインシュタインの「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」という有名な名言にも納得ができる。

私はこれから先も、今までの全ての年齢がそうだったように、全ての年齢を複雑でデリケートな年齢として過ごしていくのだろう。
そしてそれは、全ての女性にも言えることなのだろう。全ての女性は常に微妙で繊細な年齢を生きている。

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私は自分の死についても、よく考えることがある。
今の容姿のまま人生が続く訳でもなく、日々衰え、老いながら病院通いをしてまで寿命を伸ばす事に何の意味があるのだろうか、自分が長くこの世に居続けることを誰が求めてくれるだろうか、私が年老いた頃には日本でも安楽死制度が導入されているだろうか……。

人は亡くなったら医師が死亡診断書を書き、死亡届を役所に提出する。その後に訃報の連絡、葬儀社選び、年金、保険、税金、銀行などの手続き、通夜、葬儀、火葬と続く。
寺院費用や葬儀一式の費用、墓石代などを調べると人というのは本当に人生の最後にまでお金がかかる面倒なモノなんだな、と嫌気が指す。
私はそんな費用を周りの人間に出させたくもないし、そんなお金を消えた私に使わせるくらいなら生きている子孫に使ってほしいと思う。

私は、体さえ燃やして抹消してくれたら構わないのにな、と思っている。
お経よりも好きな小説を読んで欲しいし、好きな音楽が聴きたい。誰を怨むこともなく成仏するから私のことは忘れてみんなで楽しく過ごしててよ、通夜も法事も墓石もいらないからさ、と考えてしまう。

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だが、私の両親は私のようには考えてはいないだろう。
両親が亡くなった際には私が、これらの"面倒"な一連の流れをこなし、大金を払い、疲労で疲れ果てるのだろう。そしてそれは、亡くなる数十年前の段階から長い時間をかけて始まるのかもしれないし、ある日突然何の前ぶれもなく起きるのかもしれない。
私は思わず、むかし話の「姨捨山」を思い出してしまう。

私は自分が老いていくことよりも、両親が老いていくことを見届けなければいけないことが怖いのかもしれない。
それは、面倒を見たくないということなのかもしれないし、幼児返りしていく親の姿を受け入れられないだろうという怯えなのかもしれない。
私には未来への覚悟がまだ出来ない。

ただ、自由な選択肢で溢れる未来でありますように、と願う。