「自分が死んだら、入れ歯を装着した状態で送り出してほしい」というのが、祖母の生前の頼みだった。常に身だしなみを気にしていた祖母らしい頼みではあるが、まさか死んだ後のことも考えているなんて、と当時の私は目を丸くした。

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 私が17歳の頃、祖母は癌を患い、余命半年だと医師から告げられていた。ショックのあまり、来る日も来る日も私は泣き続け、全く食欲がない日が続いた。それもそうだ。物心つく前に他界した母に代わり、私をここまで育ててくれたのが祖母なのだから。

それからしばらく落ち込む日が続いたが、最期まで自分を貫こうとする祖母の姿と、家族や親戚の優しさを目の当たりにし、私は少しずつ現実を受け止められるようになった。そんな中、祖母から頼みを受けたのは、余命宣告から3ヶ月程経ったある日のことだった。

その日は都内に住む看護師の叔母が我が家に来ていた。祖母と叔母はとても仲が良く、明るく活発的な叔母が私も大好きだった。祖母が寝ているベッドの角度を変え、食事の準備を進めていた時、細く小さな声で「お願いがあるんだけど」と、祖母が呟いた。何事かと心配になり、私も叔母も手を止めて祖母の元へ駆け寄る。

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「ばあちゃん、どうした?どこか痛い?何か持ってくる?」

心配そうに私と叔母が声をかける。すると祖母は少しだけ口角を上げつつも、真剣な眼差しで私たちを交互に見つめ、言葉を続けた。

「こんなこと頼めるのはお前たちしかいない。私はもうしばらくしたらまた病院に戻ることになる。そうなると、ここで最期はむかえられないだろう。病院で先生や看護師に看取られてここに私が戻ってきた時、口に入れ歯を入れてほしい。いい?絶対だよ!入れ歯が無い状態で色んな人に見送られるなんてたまったもんじゃない!」

その言葉を聞き、一瞬ポカンとしてしまった私と叔母だったが、その「遺嘱」をすぐに理解した。祖母の願いを受け、いつかその時が来たら約束を果たそうと二人で誓った。そんな日が来なければいいと強く願いながら。

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それから3ヶ月後。祖母は病院で静かに息を引き取った。まだ現実を受け止めきれていないからか、涙が込み上げてくることはなく、ただ私の中で、あの約束だけが、まるで火のようにはっきりと浮かび上がっていた。

都内から叔母も駆けつけ、祖母も我が家に帰ってきた。とても静かな夜。広い実家に漂う空気はピンと張り詰めているように思えて、実際は穏やかな温もりを纏っていた。そんな対照的な空気を混在させたのは、死という現実と、祖母の温かな人間味を同時に感じていたからだろう。叔母と二人、畳に正座し祖母を見つめる。

「叔母ちゃん、やるしかないよね」

私の言葉を耳にした途端、待ってましたと言わんばかりに勢いよく立ち上がる叔母。病院から預かったという入れ歯を手に取り、腕まくりをしてやる気満々だ。「ばあちゃん、今約束を果たすからね。」そう心の中で呟き、祖母の顔に手を添える。

「合図したら一気に口を開くよ!硬直してるから大変かもしれないけど、なんとしてもばあちゃんに入れ歯をつけてあげなくちゃ!」少し緊張する私を叔母が奮い立たせる。さぁ、準備はできた。あとは付けるのみ。

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「いくよ…いち、にの、さんー」

叔母が上顎側を、私が下顎側を引っ張り口を開けようと力を込める。力のかけ方が難しく、なかなか開いてくれない。頑張ればあちゃん!あと少しだけ口を開けて!

「もう一回いくよ!せーの…!」

先ほどよりも更に力を込める。ほんの少し隙間が開いたところから入れ歯を入れ込み、装着させることに成功。ホッとしたのも束の間、なんだか可笑しくて笑いが込み上げてきた。祖母が死んで悲しいはずなのに、まさか最期にしてあげたことが「口をこじ開けて入れ歯をつける」だなんて。バチ当たりにも程がある。

でもきっと、これで良かったんだ、としばらく叔母と二人で笑っていた。祖母の願いは叶えられ、私たちは笑顔で送り出すことができた。天国では入れ歯をつけずに好きなものを食べられてるといいな。ねぇ、ばあちゃん。