私は後輩と、世間一般的に考えられるような尊敬される先輩と後輩という関係を築くことが苦手だ。私にとっての先輩という存在は好きだけれど、自分が「先輩」として存在していることに違和感を覚える。それと同時に先輩役を担うことへの不安を感じてしまう。この感情には中学・高校時代の体験が大きく関わっている。

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中学時代、私は美術部に所属しており後輩という存在がいた。当時の私は後輩・先輩という関係性を上手く理解しておらず、後輩と友だちのような関係性を築いていた。一緒に絵を外に書きに行ったり、プール掃除をしながら遊んだり、走ったりと楽しい日々を過ごしていた。

しかしその延長線として後輩から「きもい」「ばか」と直接言われたことがある。絵具を腕に塗られたり、叩かれたこともあった。振り返れば後輩との関わりは日々楽しいことが多かったけれど、少しだけ私の後輩との関わりに悲しくなったこともあった。

しかしその反対に、私に自分自身のことを話してくれる後輩もいた。「実は…」と吐露してくれたことは先輩としても一人間としても、その子にその時かける言葉の重みを感じ、人間性を成長させなければならないと身を引き締める想いになったことを覚えている。

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更に高校時代、私はある部活に所属していて後輩がいた。全国大会優勝を目指す中で、自分たちだけでなく後輩たちの技術面の促進、部員の心理状態、部員同士の関係性、毎日の勉強など最高学年として責任が重くのしかかっていた。

実際に私は何度も悔しくて涙をながしたり、自暴自棄になることがあった。しかし後輩は、部活全体を励ましてくれたり、全国大会に向けて夜遅くまで準備をしたり、練習をしたり、質問をしたりしていた。ただひたむきに努力していた。どこまでも努力家で、素直で朗らかだった。

私の中で後輩は自分にはないものをもっている存在である。後輩は偉大なのだ。私は後輩に尊敬される先輩・後輩関係を築くことが苦手である。それでも中学時代に話してくれた子がいたという過去から、年が少し上という存在として自分がいることもありなのかもしれない、と考えることができる。

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私は春から大学二年生に進級する。先日新一年生が大学で入学式を終えた。一年生とオリエンテーションで関わる機会があったが、みんなきらきらした目と弾んだ声をしていたことを覚えている。話をしてみても、大学生活への期待とこれから訪れる挑戦する日々に対するわくわく感で心を弾ませていた。反対に、大学生活では良い先輩像が求められている。

質問に的確に応える先輩、色々なことに挑戦する先輩、ロールモデルのような先輩など、「あなたたちは先輩になる」という言葉には良い先輩でありなさいと言われているように感じる。だから私は後輩と先輩として関わっていかなければいけないことに違和感と不安を抱いている。新たな後輩、新たな関係性。

私はまだ先輩としてあるべき姿を理解できていない。それでも私は先輩になる。「後輩の道を開くことが、先輩として果たすべき役割である」と恩師は語っていた。

だから私は自分自身が後輩に負けないように、自分にできることから朗らかに努力を重ねて人間性を深めていきたいと考える。こう考えることができるのも、後輩がいてくれたおかげであると考えると幸せだと私は思う。