私の通っていた高校では、生徒会が七夕近くになると短冊を各クラスに配り、それを正面玄関前の大きな笹に飾るイベントを開催していた。
はっきりと、私は高校2年生の時に短冊に「杉本彩になりたい」と書いたことを覚えている。それを飾り付けた同級生の生徒会役員の子が、先輩と「絶対この子エロいよね」と話していたことを後日人伝で耳にした。

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なぜ杉本彩に憧れたのか。
「いつかこんな大人の女性になりたい」とテレビ越しに感じたからだ。
堂々と大きな胸を強調するようなタイトなドレスを着て、知的なトークをする彼女は私の目標になった。

胸が膨らみ始めた小学生高学年から、ずっと自分の体は女性的過ぎると感じていた私にとって、この体とどう向き合っていくかは重い問題だった。
「胸が大きいからいいじゃん」「その胸だけで生きていけるよ」
思春期の女友だちには分からない問題だったのかもしれない。
その頃より私のアイデンティティ最上位は「女」で、誰も私のことを一個人として見ていないと感じていた。

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だからこそ胸に固執した。周囲が胸のことを取り上げることを止められないのであれば、私自身もポジティヴにこの胸と付き合っていかなければいけないと思った。
制服のシャツをあえて第二ボタンまで開けて強調したり、私服でも胸元が広く開いた服を好んで着るようになった。
今振り返ると、「私が好きでこの格好をしているんだから」と私自身も思い込むことで、自己選択の自由を強調していたように感じる。

しかし高校生になり、より様々な人に出会うことで新しい問題にぶち当たった。
それは、「胸の大きい女は馬鹿な女説」だ。
私の高校は共学だったが、コースの関係上で1年生の時は女子だけのクラスだった。そこではあまり感じなかったものの、2年生になって男女混合クラスになったこと、友人が同学年の男子と付き合い出したことで横の関係が広がった。
そして2年生に上がって直後、テストの結果についていて話していた時、とある男子に言われた。

「○○って、意外と頭良いんだね」
私がリアクションを取る前に、周囲の男子も彼の意見に同意した。
「そんなに馬鹿っぽく見えてたの(笑)」と返したが、この経験はその後の高校生活でよくあった。
「エロくて勉強もそこそこできるとか最高じゃん」「勉強はそんなに力入れていない雰囲気があった」
どうしても胸を示唆されていると感じてしまうものが多く、悔しさが募った。

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そしてテレビで目にした彼女。
自身が代表を務める会社に関して、興味のある動物愛護について、彼女の言葉で語っている姿に知性を感じた。
彼女がタイトなドレスを着ているのは、それが彼女にとって1番しっくりくるスタイルであり、自己意思で選んでいる結果のように感じられた。
その姿が印象的で、つい短冊に書いてしまったのだ。

それから約10年が経った今でも、相変わらず彼女の美しさに魅せられている。
私は今日も好んでスキニージーンズにタイトなタートルニットを着ており、パソコンの画面には、大学院に提出する研究計画が映し出されている。
体型に縛られず、自分の好きなことをしていると本気で思える2023年春。
これも彼女が画面越しに教えてくれた、強さや自己意思を源力にした魅力のおかげである。