お金がないから今日は見るだけ。お金がないから今日は見るだけ。今日は給料日前、今月はピンチ。ね、いいこと、私?今日は見るだけよ。

そう言い聞かせて店内に一歩足を踏み入れる。新品の独特の香りが鼻腔をくすぐる。ここは本屋。私のワンダーランド。給料日前であろうがなかろうが、慢性的金欠病である私は、本屋に入る度に、冒頭のように自分に言い聞かせる。しかし、その自分への誓いは守られたことはない。新しい本、欲しかった本、初めて出遭ったけれどどこか強く惹かれてしまう本、ここで買わないと二度と遭えないような気がする本…。そんな本との一期一会に身を任せていると、いつの間にか冒頭の誓いは忘却の彼方。店を出るときには本が沢山詰まった紙袋を両手に下げている、というのがいつものお決まりだ。

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私の「我慢できないこと」、それは「本を買うことを我慢すること」である。

そもそもこの癖は、私から始まったものではない。
父方の祖父も、父も学者をしているため、小さな頃から家には本が溢れていた。流行のゲームも、人気のおもちゃも、みんな持っている携帯電話も買ってくれない、幼子心にはケチに映った両親。しかし、本は別格だった。普段の本こそ図書館で借りて読んでいたものの、図書館で借りた本でお気に入りができたり、何か勉強で読みたい本があると父に告げると、父はどこか嬉し気にすぐにAmazonでクリック、次の日には私の手元に届いていた。

友人が少なく小学校でも上手くいっていなかった私にとって、本の中の登場人物たちは友人であり、新しい世界を広げてくれる先達であり、心に豊かな時間を与えてくれる癒しであり、発見と学びを与えてくれる先生であった。そんな本の世界に、特に小学生の頃は、どっぷりと浸っていた。

中学、高校、大学と友人が増え、自分で現実の新たな世界で経験を積むにつれ、本を読む時間も減っていった。しかし、社会人になり、2人の同期と仲良くなることで、本との再接近が始まった。何十人といる同期の中でも、院卒でどこか落ち着いている雰囲気のあるその2人は、読書が趣味ということで距離が近付いた。朝井リョウさんや東野圭吾さんが好きな私。森見登美彦さんや村上春樹さんで青春を過ごしてきた同期A。江國香織さんの魅力をひたすら熱弁する同期B。3人が集まると「あの本読んだ?」から始まる会話で、喫茶店に2時間、3時間。その結果「読書部」なるものが結成された。

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自分がおススメした本を読んでもらい、感想を共有してもらう。または、普段挑戦しない分野に、おススメされたから挑戦してみる。そんなことを繰り返していると、再び本の世界にどっぷりとはまっていった。唯一、小学生の頃と違うのは、当時は本を手に入れる先が無料の図書館であったのに対し、社会人となった今は有料の本屋さんとなったことだった。

敵は本屋さんだけではない。本屋さんから帰宅し、ビール片手に家のソファでくつろいでいるときにも、ふと本欲は襲ってくる。そんなときも、現代の利器は私たちの味方であり、同時に敵ともなる。ほろ酔い気分の回らなくなった頭で、Amazonをスクロールしていると、いつの間に注文が完了している。ほろ酔い気分が覚め、赤ら顔から青ざめるのは、次の日、注文したことをもはや半分忘れていた本が大量に届いてからだ。よいどれAmazon。恐ろしいやつである。

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こんなわけで、本屋とAmazon、2つの強力な二輪によって、今月も本代が我が家の家計を圧迫している。給料日が近付くにつれ、小銭しかない財布を見る度に、来月こそは賢くなろうと心に決める。そして毎月律義に挫折をしている。おかしい、本を読むことで賢くなるはずが、本代の遣い方が段々と馬鹿になっていく。いや、待てよ。本当は、私は本屋やAmazonにお金を落としているわけでないのだ。財布が軽くなると同時に、頭の中に貯金をしているのだ、と言い訳を試みる。

「読書は一番安い体験」と言うしな。「作者は読者の成れの果て」と聞いたこともある。あの時我慢できなかった本代が、このエッセイの資料となっている。そんなわけで、いつか本代が経費になる日を夢みて、私は今日も読んで、そして書いている。