高校生2年生のとき私は教師になりたいと決めていました。広い世界を子どもたちに見せたい、その中で世の中のためにできることを自分で考え行動できる子どもたちを育てたいと思い、社会科の教師になることを夢見ていました。看護師だった母は、私に看護師になってほしかったようで「アンタなんか教員になれるわけないじゃん」と散々言われ、たくさん言い合ったことを覚えています。反対を押し切り文系の大学に進学した私は大好きな歴史に浸かり、毎日忙しいながらも充実した大学1年生を過ごしました。

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2年生に進級し、教職課程の教授からの斡旋で大学と同じ区内にある小学校にて週3でボランティアができることになりました。朝の登校指導から、授業中の机間巡視指導、休み時間、給食までを一緒に過ごして、午後から私は大学の授業に向かうというスケジュールでした。千葉に住んでいた私が登校指導できる時間に小学校に到着するためには、朝4時半に家を出発しなければならず、19歳という年齢を差し引いてもかなりエネルギーのいる日課となりました。それでも元気いっぱいの子どもたちはかわいくて、楽しく学びの多い時間を過ごしていました。

秋学期が始まった頃、気づいたことがありました。6月から始めたボランティアを通して担当していた2年生のいくつかのクラスを見ているとどのクラスも、お友達がたくさんいて、授業中も発言をして、勉強や運動も得意な児童が15%、反対に、授業についていけていない様子で、運動も苦手、すべてが退屈そうな児童が15%、中庸に学校生活を過ごしている児童が残りの70%くらい、という3つのグループに分かれていると感じました。習熟レベルは違えど、担任の先生はクラスの真ん中を取って各単元を進めていく必要がありますし、他のクラスとの進度も考慮しなければなりません。

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そうするとクラス単位として授業を進めていくためには、授業についていけていない、運動も苦手という15%の児童を切り捨てる瞬間があるように見えました。もちろん、進度の遅い児童に合わせることが難しいことは分かっています。けれども、勉強や運動が苦手なだけで、素敵な笑顔をしていたり、生き物に優しく接することができたり、通知表で表されることだけがすべてではないと思ったのです。「もし、自分が担任を持つようになったら?」この15%を切り捨て、通知表を通してこの子たちに評価をつけることができるのだろうかと考えると途端に教師への夢は薄らいでいきました。

教師という職業は私には向いてないと思い舵を切り、「通知表で評価されない範囲の教育」も大切だと考え、私は青少年教育に携わる道を選びました。学校が苦手な子どもたちへの支援や不登校指導などを通し子どもたちと接する中で、私はこの仕事が向いていると感じていました。そのような子たちや親御さんのためになりたいと強く思えたのには、私自身がきっと、切り捨てられていた15%の児童だったのだと小学校ボランティアを通して気づくことができていたからだと思っています。教師にならない選択をした際に、案の定、母には「ほれみろ」となじられましたが、私はこの選択を後悔していません。遠まわりしましたが、教師を目指さなかったら気づけなかった視点を持つことができたことを誇りに思っています。