世の中には本当に驚くべきほどお節介な人がいる。
私はそんなお節介が嫌いではない。
人を蔑んだり、傷つけたりしない限りにおいては。

私が今まで受けてきたお節介の中で、唯一気に入らないものがある。
それはバイト先の男性の先輩からのお節介だった。

「整形しなよ」。突然の勧めに、頭を殴られたような衝撃を受けた

食事の席で、突然「整形しなよ」と言われたのだ。
「あなたがね」と言い返したいところをぐっと堪えたことも鮮明に覚えている。

私は、祖母、そして父譲りの生粋の一重だ。アイプチなども一切したことがなく、ありのままの一重で生き続けている人間だ。

外見を気にするようか多感な中学生のころには、「二重っていいな、二重になりたいな」と思ったこともある。
とはいえ、整形をしようと思ったことはない。なぜなら、自分の顔や外見を嫌いではないし、そこまで外見で困ったことがないからだ。

残念ながら、容姿が華やかなわけではなく、外見でモテるような美しさはない。しかし、そんな外見であるからこそ、親しみをもたれやすく、人から無駄に警戒されたり、やっかみを受けたりすることもない。言ってしまえば、「地味」で「素朴」な「ちょうどいい」見た目だ。

そのように自分のことを捉えている私に、目の前の人が、急に整形しろと言ってきた。その瞬間、私は何かで頭を殴られたような衝撃を受けた。

その人のロジックの中では「整形をした方が幸せな」私という存在

「なんでですか」
私は不機嫌さを隠さないまま、目の前の先輩に訊いた。
「あなたがね」と言いたいところではあったが、外見に対して勝手にコメントする、同じ土俵に立つことは嫌だったので、その発言は飲み込んだ。

その発言は悪びれた様子もなく続けた。
「うちの妹は、整形をして二重にして、自信を持つようになった。異性からもモテるようになったし。外見が変われば絶対自信もつくよ。」

彼の回答に10個ぐらい、つっこみを入れたくなったが、相手にするのも馬鹿らしいと思い、
「別に自信がなくて困っているわけでもないので」
と私は、話題を断ち切った。

あの日のあの場面はふとした瞬間に、頭をよぎる。
決して思い出したいわけではない。
でも勝手に浮かぶのだ。

そして、いつも腹立たしく、悲しく、ばからしい気持ちになる。
「整形をすることでようやく幸せになれる」物語に勝手に閉じ込められたことに傷つくのだ。
さらには、勝手に自分の物語に他人を当てはめて良いと思っている人の存在に、恐ろしさと悲しさ、諦めを感じるのだ。

私の幸せは私が決めるという意識は、私にとってかけがえのないもの

先輩の「整形しなよ」という言葉を思い出す度に、
「自分の幸せは自分で決めるからほっといてくれ、あなたは外見により生み出される幸せを大切にして良いから」という回答が浮かぶ。

私の幸せが私が決めるのだ。
たまに「もっと目が大きければ」「もっと可愛かったら」と思ったとしても、それは私が感じることであり、思うことだ。
他人から強制されるべきことではない。

だから、私は彼の外見によってもたらされる幸せの物語を否定はしない。
けれど、その物語に組み込もうとする姿勢には断固としてNOを示したい。

私の幸せは私が決めるのだ。
この意識自体をずっと大切にして生きていきたい。