二重整形など、今でこそ美容整形はより身近なものになりつつあるのかもしれないが、それでもまだ批判的な意見は多いと思う。
SNSなどでよく見受けられるのが、芸能人に対する意見だ。「顔、前と変わった?」「整形?」などの言葉には、どこか棘が感じられる。中には好意的に捉えているものもあるのかもしれないが、目につく言葉はどれも小さな攻撃性を孕んでいるように見える。

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個人的には、整形に対してそこまで厳しい目を向けなくてもいいのではないかと思う。
大きなリスクを伴うような過度な整形は諸手を挙げて賛成とも言い難いものの、「綺麗になりたい」という想いはその人だけのものだ。本気の想いを、どこの誰だか知らない赤の他人が一方的に揶揄したり蔑んだりするのはどこか歪んでいると思う。赤の他人でなくても、同じことだ。身近な人だとしても、最初から斜に構えて捉えるのは間違っている。

私自身は美容整形の経験はないが、コンプレックスの度合いがもっと強ければおそらくやっていただろうと思う。優先順位、とも言うべきだろうか。

身体のパーツに対するコンプレックスは、挙げ始めればぼろぼろと出てくる。左右で大きさが微妙に異なる奥二重の目、低い鼻筋、狭いおでこ、笑うと強調されるたくましい頬肉、えら張り気味の輪郭。

でも、私にとって最も「どうにかしたい」と思っていたのは、気持ち悪いくらいに濃い体毛だった。毛深い自分が、幼い頃から嫌で嫌で仕方なかった。周囲からさりげなく白い目を向けられた記憶も数え切れないほどにある。その全てが、劣等感の塊となって今でも脳裏にこびりついている。きっと一生消えないのだろう。

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医療脱毛と美容整形はまた別物ではあるが、根本にある「綺麗になりたい」という願いは同じものだ。22歳の頃から、定期的にクリニックに足を運ぶようになった。大きな出費ではあったものの、全身脱毛を躊躇う気持ちはなかった。

元々私は、何かというと周囲の言葉の影響を受けやすいタイプだと思っている。勝手に傷つくことも多い。その分、肯定的な言葉はまっすぐに受け取って自信へと昇華させることができる。

「まりちゃん、目ちっちゃくないよ大きいよ」「まりちゃんの真ん丸の顔、好き」と傍で言ってくれるパートナーがもしいなかったら、美容整形をやっていた可能性は大いにあるだろう。

けれど、そんな「整形したい」と思う自分、別の世界線にいる自分を、特に否定する気にはならない。可哀想だとも思わない。
その世界線の未来に、今よりも美しくなった自分がいるのなら、そんな自分の姿も見てみたい。きっと、堂々と鏡を見つめられるのだろう。写真を撮られることに対する苦手意識もずいぶん薄まるのだろう。美への自信も、自己肯定感を高めるための1つの手段だと思う。

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美容整形は、生きづらさを和らげるための魔法なのかもしれない。
“魔”と言う以上、一定の危うさを伴うのは否めない。けれど、美しさを追い求めて研究されてきた確かな技術でもあるはずだ。
何をもって「生きやすい」と思うのかは人それぞれだが、生きづらさに長年悩んできた身としては、整形に対する世の中の目がもう少しマイルドなものになればいいと思う。せめて、無自覚に突き出している言葉のナイフは懐にしまってほしい。