一人時間が好きな私は、自分の家に他人が泊まるのがとんでもなく苦痛である。心底仲のいい友人が一泊するくらいならまだ許せるが、知り合い程度の人が「瀬璃の家遊び行きたい」と言おうものなら「え、やだ」と即答する。その非情ぶりに大抵引かれる。

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そんな私に母は「あんた結婚向いてないね」と言う。確かにそうかもしれない。20歳を過ぎてもなお好きな人がいたことがない私は、そもそも他人というものに無関心なのかもしれない。自立しすぎている節は否めないし、血の繋がっていない誰かと生活をともにする自分がまったく想像できない。

しかし結婚したい欲はめちゃくちゃあるのだ。もとい彼氏が欲しい欲もある。一緒に暮らし始めたらベッドは別々がいいし、自分専用の部屋が欲しいが、結婚はしたい。わがままだろうか。でもそれが私の理想の夫婦の距離感なのだ。
結婚したいと思うのは、単純に自分の圧倒的味方が欲しいからだ。血の繋がっていない味方というのは何よりも心の支えになる。

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もう一つ、私が結婚したいと思う強い理由は子どもだ。子どもが欲しい、今すぐにでも欲しい。結婚願望よりもその気持ちのほうが強い。めちゃくちゃな極論を言えば、結婚せずとも子どもだけは欲しい。そして親に孫という存在をつくってあげたい。

しかし最近、ご時世的に子どもを産んでも幸せになれないという風潮が出回っている。値上がりや不景気と近い将来訪れるとされている巨大地震への懸念からだ。子どもを産んでも養うことが難しいという世間の本音は、母に「結婚しても子どもは産まないほうがいいよ」と言わせた。ショックだった。私は孫の顔を見せることが至極の親孝行だと信じているし、親の幸せは私にとっても幸せだ。それができない(むしろしないほうがいい)と本人に言われてしまったことに、自分でも驚くほどかなり落ち込んだ。

となれば何が一番幸せな形なのだろう。将来を見据えることが難しくなっている現代、幸せの形を具体的に考えることも憚れている気がする。結婚して、子どもを産んで、育児をして、また自分の子どもが結婚して子どもを産んで…、そんな生活のサイクルがまるっきし見えないのだ。

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「結婚=幸せ」というわけではないことも、「幸せ=結婚」ではないということもわかっている。でも結婚の先にあらゆる幸せが転がり落ちているのはわかる。幸せの形の選択肢の幅が広がる。子どもを産んだらまたさらにそれは広がる。こう思うのは、きっと私が幸せな家庭で育てられたからだ。

幸せになれるかなんてわからないが、幸せになりたいという気持ちはある。先が見えないとか将来がどうとかは二の次にして、目先のことだけ見ても、やはり結婚と出産育児は憧れだ。自分と愛する人の血が流れている生命体を産むって素晴らしいことだと思う。神秘だと思う。「子どもは産まないほうがいい」と言った母に、いつか「孫がいるって幸せ」と思ってほしいと、そう願うのは浅はかだろうか。