中学時代、女子はスクール水着を着るのが「ふつう」とされていた。だけど、その「ふつう」は明らかに、女の子たちを苦しめていた。だから、変えるべく行動に出た。

水泳の授業中ずっと、ニヤけ顔がこっちを見ている

事の発端は、水泳の授業だ。

私たちの中学校では、プールは男女合同だった。更衣室で着替えて、プールサイドに向かっている途中、前を行く数人の男の子たちが、チラチラとこちらを振り返ってきた。みんなニヤついていて、なんだか気味が悪かった。理由を突き止めたくて観察していると、このニヤけ顔の一群は、水泳の授業中ずっと、水着姿の女の子たちの方を向いていることに気づいた。

そこで私は、すぐさま自分の脳に「男 スクール水着」で検索をかけた。当時、母のパソコンを借りて、授業の調べものをしていた。その際、性的な広告が表示されることもあった。そういや、その中に、スクール水着の女の子もいたな…

そして、ピンときた。そう、ニヤニヤ顔の男の子たちは、スクール水着姿の私たちを、そういう広告の延長上で見てるんだ、と。謎は解けた。同時に、こんな気持ちが生まれた。
「私、そういう目でみられるの、嫌だ」

授業後、数人の女の子たちにそれとなく話してみると、みんなが私と同じ居心地の悪さを感じていることが分かった。そもそも、スクール水着でなければならない理由がわからなかった。妙に際どく、頼りない肩紐の水着。飛び込みの時に身体から布がズレる恐れもある。いくら水中の抵抗を抑えてタイムを良くするためとか、それらしいことを言われても、納得できなかった。世界最速を争っている水泳選手の中にも、太ももまで生地がある水着を着ている人がいるからだ。理不尽さへのモヤモヤがどんどん募っていった。

女子生徒が着るものを男性の先生が決めた 「昔からの伝統だぞ」

何回か水泳の授業を受けても、男子のねっとりした視線は変わることがなかった。ついに、その視線を避けるべくして、体育を生理とは別の、体調不良を表向きの理由で休む女の子がでてきた。女の子たちは、そうして自分の心身を守っていた。

そんな様子をみて私は決意した。体育の先生に直談判に行くことにしたのだ。体育の先生は、男性だ。あらかじめ、女性の先生に相談してみたのだが、水着変更の許可を出せるのは、その先生だけだというのだ。女子生徒が着るものを男性の先生が決める、なんて意味が分からなかったが、昼休みに、とにかく職員室へ直行した。私が「セパレートタイプの水着」の許可を頂けるように申し上げると、体育担当の男性の先生は、至極当然そうな顔でこう言った。

「あのな、ふつう、水泳の授業で女子が着るのは、スクール水着と決まってる。みんなそうしてるし、昔からの伝統だぞ」

私は、ありがたいことに授業や本で、先生の言った「みんながしている」、「伝統」が正解だとは限らないと学んでいた。みんなが昔していた戦争や、インドの伝統サティー(夫が先に死んで火葬されるとき、妻は後を追い、火に飛び込まなくてはならないという伝統)は、今では間違いだったと受け止められている。なので、みんなが続けているからという理由で、それは正しいという保証にはならない。

男子の視線が嫌だと言うと、先生は苦笑いで一言。「それは男の子だから仕方ない、許してやってくれ」いや、仕方なくない。私は、「いえ、他人の身体を不躾に見てくるなんて許せません。百歩譲って、いや一万歩譲って許すことがあるのだとしたら、それは少なくとも、セパレートタイプの水着の許可が下りてからのことです」と食い下がった。

許可を得られるまでは、絶対に退かないと決めていた。先生からは、「お前、なかなかしつこいな」と苦笑されたが、私の方としても「先生もなかなか頑固ですね」という感じだった。生徒が安心して授業を受けれるような環境づくりをするのも先生の仕事だと思う。こちらはただ一言「OK」の言葉が聞きたいだけなのだ。こちらは、プールを増築してください、みたいな無理なお願いはしてない。

粘りに粘っていると、隣で聞いていた家庭科担当の女性の先生が加勢してくれた。その先生が以前勤めていた学校で、セパレートタイプの水着を選択制にしているところでは、女子生徒やその保護者からの評判が良いということを話してくれたのだ。その話を聞いて時代の変化を感じ取ったのか、体育の先生は考え出した。チャンスだと思い、許可を求める運動を続けた。放課後も先生を捕まえて、粘り続けた結果、ついに先生から許可の言葉を勝ち取った。

身に着けるものは、私たちが選ぶ。後の世代の女の子からの感謝


許可が出てから、クラスの女の子たちの間で、セパレートタイプの水着の着用率は徐々に上がっていった。案の定、男の子には不評だった。「スクール水着の方がよかったのに」と恨めし気に言ってくる男の子もいたが、そんなことは知ったこっちゃない。私たちが身に着けるものは、私たちが選ぶ。

十数年経った最近になって、後の世代の女の子やそのお母さんたちが、スク水を着なくてもいいことに、とても感謝していたということを知り、思わず頬が緩んだ。