人生は選択の連続だ。
こう思えるのは大抵の場合、ある程度大人になってから、親から自立してから、自分に選択肢がたくさん与えられてからではないだろうか。

子どもの頃は親が住んでいる場所、親の経済力や親の方針でなんとなく決められていくものなのではないかと思う。

私は父親の仕事の都合で引越しを何度か経験している。そういった意味では人生の分岐点は人よりも多く感じているが、やはり選択の連続だったかと言われれば、親の都合により住む場所や通う学校は決められていたからそうではないなと感じる。
そんな私が記憶する中で一番最初の選択は高校1年生の冬の選択だ。
この選択は私にとっては“逃げ”の選択だった。

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先述したように私の父は仕事の都合で転勤が多い。高校1年生の冬、父親の福岡への転勤が決まった。
神奈川県の公立高校に通っていた私は、当たり前のように福岡県の公立の高校への編入試験を受験することを決められた。

父の都合で引っ越すこと自体は今まですでに何度もあり、それまでは親の言う通りについていくことに全く疑問も抵抗感も抱いていなかった。
しかし高校生になった私は自立心が芽生え始めていて、何より今作った周りの環境がなくなってしまうことがとても嫌だった。

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どうにか転校を阻止できないか。そう考えた私は高校のカリキュラムについて調べた。その当時私は物理基礎と生物基礎の方の履修をしていたが、転校予定の高校では一年生の時にすでに化学基礎を終えているようだった。大学受験にこれはとても不利だ。

こんな不利なことがあるのだから親も検討してくれるだろうと意気揚々と「カリキュラムが違うから神奈川に残りたい。」と伝えたが、あっさりと撃沈。この作戦でいけると思った私はかなりショックを受けたが、自立心が芽生えたとはいえまだ親に養ってもらっている身。これ以上編入試験を受けない術はなかった。

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そして当日。
たまたま同い年の男の子がもう1人受験をしていた。
ここで私はもう一つの作戦を思いついていた。
それは“ありえないほどの間違いをして受験にそもそも落ちる”というものだ。

受験先の高校がそこそこ頭の良い高校だっため、頭が悪い生徒だと思われれば普通に編入できないのではないかと考えたのだ。
そこで出た問題の分かるところは全て違う答えを、分からないところはそのまま頑張って解いてみた。
国語、数学、英語の試験を終え、少し時間が経って共に受験した男の子親子と二組で先生の話を聞く。

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結果、男の子は合格、私は不合格だった。
不合格が言い渡された私はそれ以上の説明は必要ないとし、そのまま帰らされた。
母親は帰り道、「本当に恥ずかしかった。情けない。」とずっと嘆いていた。その時ばかりは親を落ち込ませてしまって少し申し訳ない気持ちになった。申し訳ない気持ちとホッとした気持ちで新幹線に乗って神奈川に戻った。

不合格になった私はそのまま元の高校に通い続けた。
部活の同期はもう引っ越すと思っていたらしく、その一年半後の引退式でせっかく作ったからとアルバムをくれた。「元気でね。」の言葉で溢れたアルバムは気恥ずかしく面白い思い出として今も大切に残している。中学からの友達ともその後も続いて今も10年来の友達だ。

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大学、社会人と新しい友人関係は輪を広げていき今はとても楽しく暮らしている。これはあの時福岡に引っ越していたらどれも実現しなかった。

親からの自立は子にとっても親にとってもものすごく際どく難しい問題だ。“わざと間違える”というのはあの時の親の方針から親の保護からちょっぴりだけ逃げ出した、はみ出した選択だった。
別の選択をしたとしても、とても良い人生を歩めていた気がする。ただ私とっては今となってもあの逃げの選択はベストだと感じざるをえない。

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ちなみに、高校を卒業するあたりに親には正直にわざと間違えたということを伝えた。
親としても初めての単身赴任ということで不安や心配もあったと思うが、それを聞いて笑っていた。そんな気もしていたと話していた。その頃から親から見た私も少しはみ出した存在になっていたのか、私の進路について何か言及されることは滅多になくなった。

“逃げる”には色々な意味合いがある。がその言葉のもつイメージ通り、マイナスでとても勇気のいることだし、今までの自分とは違う選択をすることだと思う。その“逃げ”を良かったと肯定できる自分を私はとても誇らしく感じている。これからも色々な選択を自由にして、それを誇れるように生きていきたい。