私は常々、祖母が歩んできた人生について書き残しておきたいと思っていた。
孫たちはみんなおばあちゃんのことが大好きだ。小さい頃は家に遊びに行く度に、美味しいご飯を作ってくれたり、車で海に連れて行ってくれたりした。本当に優しくて温かい人で、祖母の周りにはいつも人が集まっている。

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祖母は生まれてからずっと沖縄の小さな離島に住んでいる。年齢を聞いたらいつも忘れたと言うので正確な年齢は知らないのだが、たぶん70代後半ぐらい。戦後の日本全体が貧しい時代、若くから働かなければなからなかったので高校や大学へ行くことはなかった。

19歳の時に同じ島で生まれ育った祖父と結婚して以来、人から借りた農地で畑を耕すことから始め、農業で生計を立て、4人の子どもを育て上げた。

私は「尊敬する人は誰ですか?」と質問されたら、祖母と答えることにしている。
今年のお正月に、久しぶりに母の実家がある島に数日滞在する機会があり、その時初めて祖母がどんな人生を歩んできたのかを知ることになった。いつの間にか祖父が亡くなって数年経っていた。

母方の親戚一同が住んでいるのは、沖縄本島からフェリーで30分ほどに位置する離島で、農業や漁業が主な産業となっている地域だ。

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祖父母が結婚した当時は、土地を持っていない上に借金がある状態だったので、まず地主から土地を借りて農業を始めたという。毎日朝早くから畑に行って、休みなく働いた。台風で農作物が売り物にならなくなった年もあったが、少しずつ少しずつ生産量を増やし、自分の土地を持てるようになった。

「あの時は、本当にお金がなかった」

「借金返しながらの生活だったから、おばあちゃんはお米を買うために商店に頭下げてツケで買ってたんだよ」

「米軍基地の飛行場のそばで鉄屑を集めてそれを売ったらお金になったから、昔はよく探して拾ってたよ。信じられないかもしれないけど」

その場にいたおばさんが、少し笑いながら当時の思い出を語ってくれた。

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また、祖父が昔どんな人だったかも初めて話してくれた。

「おじいちゃんは気が短くて、怒ったら手がつけられなかったよ。物投げたり叩いたりね」

私は、硬派で物静かな感じの祖父しか知らなかったので、気性が荒い性格だったと知って衝撃だった。

「おばあちゃん、大変だったんだね」

「うん、逃げようと思った時もあるよ」

「なんで逃げなかったの?」

「4人子どもを置いていけなかった」祖母が小さく答えた。

その時代はきっと家庭内暴力という概念がなかったので、物を投げたり叩いたりする祖父を誰も止めることができず、祖母はずっと耐えていたのだと思う。

いわゆる亭主関白だった祖父は農業経営に全振りだったため、祖母は畑の仕事も家のことも全てこなし、ワンオペ状態だったという。

思い返してみると、確かに祖父が掃除をしたりご飯をつくっている場面を覚えていない。椅子から立ち上がってお茶をいれるところさえも、一度も見たことがなかった。

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最終的に祖父母は農家として大成功した。小さい頃は、お年玉やお小遣いをたくさんくれたから、(おじいちゃんとおばあちゃんはお金持ちなんだなぁ)ぐらいにしか思っていなかった。なので、祖母がそんな波瀾万丈な人生経験をしていたとは驚きだった。同時に、綺麗事だけでは語れないのが人生だな、とも思った。

本人は意外と大変な人生と思ってないかもしれないし、ただ自分だけが苦労を知っていればいいと思って、誰にも言わなかったのかもしれない。質問したいことは山ほどあったのに、その場では言語化することができなくて、気になることは結局聞けなかった。あの時祖母の本心が聞けたらよかったな、といつか後悔するかもしれないが、なんとなく無理に聞いてはいけないような気がした。

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祖母の人生談を一通り聞いた後、私はこんなに強い女性を他に知っているだろうかと思いを巡らせた。祖母は、現代社会で多くの人が直面している、仕事と家庭を両立するという課題を、既に50年前に実践していた。

農業を引退してからは、友達とゲートボールをしたり、孫とひ孫を可愛がったりして、老後ライフを楽しんでいる。私にはそれが、何十年も家族や周りの人に尽くし必死に働いてきたことが、巡り巡って今の幸せに繋がっているように見えた。

有名人でも歴史上の人物でもないが、祖母の人生をこういう形で書き残したかったのは、懸命に生きた証を残しておきたいと強く感じたから。今まで誰にも語られなかったひとりの人生には、たくさんの教訓と尊敬が詰まっていた。