私は物心ついた時から中学3年生まで一貫して表現者になりたかった。
自分自身を表現したり、他者の考えを表現するための媒介になりたかった。
幼い頃は、自身の承認欲求で夢を見ていた。

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歳を重ねるにつれて音楽やお芝居、小説などの表現が人の心を豊かにしたり、支えになったりすることを知った。そして、私も他者を支えたくなった。
しかし、それと同時に世の中は輝かしいことばかりではないことや、ある人が救われる表現はまたある人の心を傷つける表現であることもあると知った。

自分の夢は綺麗事でしかないと思った。それから、私は進路希望表に夢を書けなくなった。
誰にもバレないように夢を口に出さないようにしていたら、徐々に自分の夢はあやふやになっていった。

私は芸術大学を受け、不合格だった。努力も人間性も足りなかった。
自分の理想と現実はあまりに懸け離れていて、虚しさと自己嫌悪で自分の中はいっぱいだった。

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いつか私が破裂してドロドロした中身が流れ出ていってしまうのではないかとすら思った。
大学に進学できなかった私は、自暴自棄になり非行に走った。
その頃にはもう心の奥にしまっていた夢と希望と憧れは、思い出せないくらい薄れていた。
時々親に対してなのか、今の自分に対してなのか、子どもの頃の自分に向けてなのかはわからないが、申し訳なくなった。

田舎の深夜の喫煙所は、見ないようにしていた自分の情けなさを再認識させた。
そんな時に、親から社会福祉士と精神保健福祉士のYさんを紹介された。
毎週面談をすることになったが、最初はそれは私にとってとても苦痛で惨めだった。社会から支援を受けることは自分の欠けたところを認めるようで、恥ずかしいことだと思っていたからだ。

Yさんはそんな私の気持ちを見透かしていた。見えていてなお、私に寄り添い「あなたは優しいから自分を犠牲にしてでも他の人の幸せを願ってしまうんだね。」と言った。

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Yさんと話すことで私は自分の気持ちに整理を付けられることができ、頭に余裕ができると、本来自分はどうなりたかったのかを思い出せるようになった。

芸術における表現とは人の心に影響を与え、支えになる事ができるが、それは芸術だけではなく福祉の観点からも同じことが言えると気がついた。

私は幼い頃キラキラした大きな夢があったが、内外からの要因があり、それを押し殺してしまった。それにより自分自身を見失い、たくさん道を間違えた。
この経験は学ぶものは確かに多々あったが、充実した時間かと言えば、そんなことは万が一にもない。

これから生まれてくる子ども達の、大きな夢となりたい大人像を私は守りたい。
そう考え、私は福祉関係の資格を取ることを決意した。
毎日学生時代よりも勉強し、自己分析を重ね、忙しく大変な日々は不思議と苦痛ではない。
そう話すとYさんは目を真っ赤にして泣いた。何も言わず涙を拭いながら頷いていた。
まだ何が叶った訳でもないが、あの頃の私の夢は形を変えて、今もまだ生き続けている。