酒を飲める年齢になって9年程経つが私は酒との距離感をここ数ヶ月でようやく「いい距離感」が掴めるようになった。私は酒が好きか嫌いかはわからない。進んで晩酌をしたりはしないけれど、友達が飲むと言う場では飲む程度。強くも弱くもなくお上品にいえば「嗜む」という言葉がしっくり来る。

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ワイン系のカクテルと梅酒のカルピス割が好き。けれど呑み会…得に大人数のものには非常に苦手意識があった。私は普段他人に気を使い過ぎながら生きている、小学校からの友達と遊ぶ時でさえ友達が「退屈してないか?」「楽しんでるか?」アンテナをビンビンに張りすぎて、結果的に疲れてしまうフシがある。

呑み会のような、大人数が集まり、なおかつ酔の回ってる人々に対して酔の頭で気を使い続けることは、まるで脳を沸騰した湯の中で煮立てるみたいな感覚に陥る。酒が入ると普段見せない顔を見せる、その顔には愚痴の色や怒りの色が滲み出ているけれど、どうせ明日には覚えているか定かではないというのに、そんな人らにさえも気を使い、望む言葉・態度を考えて口角を上げ続けるのはシンプルに苦行だ。

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大人数で呑み会なんてした翌日には二日酔いではなく、張り詰めすぎた神経がぱちんと緩んだ反動でバタンキューである。神経を摩耗してるのだ。ちなみに気を使わない、という器用なことは私には出来ない。

なので呑み会には極力参加したくないというのが本音だった。会社員の頃は、同僚は女性…それもお子さんがいる人も多い為呑み会はなく忘年会がある程度、それも昼から始まるランチ会のようなものだったので済んだが…ここ数年私は「呑み会」に悩まされていた。きっかけは以前行っていたライヴ活動である。

数年ステージを見ていた憧れのパフォーマーの方にお声掛けし主催イベントに出させて頂いたのだ。コロナ禍にスタートさせた活動で、文章とはまた違う表現方法として下手ながらも楽しくはやっていた。しかし世間の自粛モードが解かれるのと真逆にはその活動が不可能になった。

元々コロナ前は「ライブ」+「終演後のお客さんとの呑み会」がセットのイベントで、たまたま私が出演した時期はコロナで呑み会が出来ないから参加できただけで、「ライブ」出演は呑み会の参加が義務付けられていたのだ。THE、飲みニュケーション。

活動はしたい。けれど呑み会…それもほとんど初対面のようなお客さんたちや他の演者さんと呑むなんて…心への負荷を測ると躊躇いが生まれ、断ったらもうそこまでだった。

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イベントにもう参加できないこと、

呑み会が苦手…ということで憧れのパフォーマーの方と疎遠になってしまったことを悔やみ自分が悪いのだと、どうにか呑み会を好きになろうとした。

ここからはもう修行である。陽キャ修行。
磯丸水産や大衆酒場のようなごちゃごちゃした空間でひとり呑みをし、周りの人は全員知り合いでこれは呑み会だ!と思い込む、を毎週金曜日の夜などに実行してみた。

まあ結論をいえば、気を使わないということは出来ず、店にいる名前も知らないおじさんや大学生のサークル集団に話しかけることはないが、脳内では「あの人からあげにレモンかけたら嫌そうな顔してるな」「こっちの人顔が険しいけれどつまらないのかな?」なんて赤の他人にすらエア気使いをしてただ疲れて終わった。

呑み会を苦手なことは恥ずべきことに思えた、どうにかして直さねばと躍起になっていた。パリピになれる薬があるなら飲むのにと本気で願った。

しかし転機が訪れる。それは「サシ呑み」つまり1:1で飲む楽しさを知ったのだ。
学生時代の友達から「呑もう」と誘われた最近は人と飲むことさえも嫌で自宅のベランダで缶チューハイを開けるばかりの私は乗り気でないな、なんて断ろうかと考えた。

けれど電話口で「サシ呑みしよう、気になっている個室居酒屋があるの」といわれた。サシ呑み、なんとも格好いい響きに思えた。それにもう缶チューハイの味に飽きていたのかもしれない。

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待ち合わせたのは地下にある居酒屋で襖戸で仕切られ机の下は掘りごたつ隣の部屋がたくさん並んでいた。隣の部屋の声は多少聞こえるもののこの場には私と友達のふたり。まるで家のような、実家の自分の部屋のような、なんとも不思議な感覚。和風な部屋のような空間でお酒を傾けながら、近況を話す。人の目がない分友達は彼氏のセックスへの不満もあけっぴろげに話し、私は学生時代の先生の物真似をして彼女を酸欠にさせる程笑わせることに成功した。

個室居酒屋の3.4畳の空間はまるでタイムマシンのように私達を学生時代に飛ばしたり、「おばあちゃんになってもこうして会おうね!」とグラスをカチンと鳴らせば未来へ飛ばしたりする。1番楽しい酒の席だった。

今までお酒を飲むということは大人数で、なおかつ盛り上がらねばいけないという固定観念があったが、ふたりきりで、そして静かに飲んでもいい…そんな当たり前のことに気付けたのは目から鱗であった。

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今私は場所は変われどライブをする環境…音楽の側に身を置く私。

どうしてもライブや音楽の世界と飲みニケーションは切り離し難い。
パフォーマンスを終えたプロの歌手の方々はバックステージや楽屋で「ぷはぁ」と飲み干す、打ち上げもある。私は握るマイクを置いて、ビールサバーを右手でひき、左手に持つジョッキを傾けビールを皆さんに届ける。
けれど私が飲むことはないし、それをいけないことだとか引け目を感じることはなくなった。

よく考えれば酒の飲み方に正解はないのだ。そもそもこの世には「1+1=2」のような算数の答え以外は「正解」というのはないのだ。だから「きのこの山」と「たけのこの里」も、「シチューをごはんにかける派」と「かけない派」も永遠に争っている。

どちらが「正解」か「不正解」かという答えはこの世にはないはずなのに。誰かにとっては大人数で飲むのが正解で、また違う誰かにとってはひとり呑みが正解で、そして私にとっては、深く近づきすぎず、されど離れすぎない、アルコールとの距離感はサシ呑みこそが正解なのだ。ある人の「正解」は、違う人の「不正解」になるから、押し付けてはならないし、押し付けられてもノーサンキューな自分でいいのだ。

誰かと深く人目のない空間でどぼんとアルコールに浸かって語るのこそがアルコールという科目にとっての私の花丸なのだ。

疎遠になってしまっているパフォーマーさんとも、いつかサシ飲みできたらいいなあなんて思いつつ、高校の頃の友達とさしのみの予定が書かれたスケジュール帳の日付に書かれた◯を眺める。