私は10年近く前から、Twitterのアカウントを作っては消し、作っては消し、を繰り返している。
数ヶ月前に5代目のTwitterアカウントを消したばかりだ。
情報収集の場が減り、やや不便だなとは思うが、代わりに得られた心の平安には到底代え難い。
何かをキッカケに衝動的にアカウントを作り、また消すの繰り返し
私が初めてTwitterのアカウントを作ったのは、大学受験を控えた浪人生の時だった。
医学部受験についての情報はもちろんだが、同じ立場である浪人生のみならず現役生がどのくらい勉強しているのか、そして自分がどのくらいのレベルに達しているのかを知りたいと考えたからだった。
勉強時間を報告し合ってみたり、模試の偏差値を赤裸々に公表し合ったり。特にトラブルもなく程良い刺激を貰うことができたし、春には希望の医学部にも合格できた。
無事に受験が終わったあともタイムラインは仲良しの会話が続いていたが、元々コミュ障な私はTwitterでも変わらずコミュ障で、ユーザー同士の馴れ合いにはどうも馴染めなかった。
オフ会に参加するだなんてとんでもなかったし、そもそもSNSで繋がっているだけの見知らぬ人と会うだなんて、当時は考えもしなかった。
という訳で、Twitterのアカウントを速攻で消した。
学習能力がない私は、何かをキッカケに衝動的にアカウントを作るのだが、やがて何かをキッカケにアカウントを消す。
最近Twitterのアカウントを作成したのは、医師になって自分の専門科目を決めたときだった。
同じ専門科目の同世代や先輩たちのアカウントをフォローし、タイムラインに流れてくる日々の仕事のちょっとした知識や悩み、失敗談を読みながら、自身の日々の診療に活かしたりとそこそこ充実していた。
ところがタイムラインに目を通しながら、現実世界の嫌なところから逃げるための憩いの場だと勝手に思っていたはずのTwitterの世界も現実と変わらない、いやむしろ匿名だからこそ現実よりも酷い世界が広がっていることに気がついた。
目の前で広がるのは紛れもない「イジメ」で、私はアカウントを消した
あるユーザーのツイートに対し、別のユーザーが返信・引用を使用する訳でもなくツイートの内容を全否定しているものがあった。波を荒立てたくないからこっそりツイートしたのかもしれないが、面と向かって意見できないから影で文句を言っているようにも見えた。
そして、元ツイートに対しお気に入り・コメントで絶賛していたにも関わらず、全否定内容のツイートにもお気に入り・同調するようなコメントを入れるような、その他ユーザーたち。何がしたいのか、全く理解できない。
これは、紛れもない「イジメ」だ。
実名で参加していないユーザーが多いからこそ、無意識に、無責任にイジメに加担してしまっているこの事実を、当人たちはきっと気がついていないだろう。
実際にTwitterが原因で哀しい事件が起きたというのに、Twitterでは同じようなことが毎日のように繰り返されていた。
そしてもし自分も、知らず知らずのうちにイジメの一端を担ってしまっていたとしたら。
あまりに恐ろしすぎる「もし」に、私はアカウントを消した。
不便でも、自分が被害者にも加害者にもならない安心感
数ヶ月前にTwitterのアカウントを消して以来、私は徐々にデジタルデトックスを進め、他に持っていたInstagramアカウントを消したり、スマホに入ってはいえるけれど使用頻度の低いアプリを消したりした。
来年には専門科目での試験も控えているので、大学受験の時と同様に情報収集した方が良いのかもしれないとは思いつつ、あの混沌とした暗い世界を思うと、やはり当分の間は再度アカウントを作る気にはなれない。
やや不便さはあるが、その代わりに自分が被害者にも加害者にも決してなりえないという安心感、嫌なものを見せない・見ないという心の平安を得ることができた。
何よりも大切なのは、自分の心の平和だ。これを差し置いても、便利さを得なければならないのだろうか?
私は、「ノー」と断言する。