この4年間で一番変わったのは自己認識だと思う。
私は一体何者なんだろうという問いに対する答えを私はこの4年間で見つけることができた。

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いつか大好きなアイドルが言っていた「人間は25歳までに受けて来た影響や、身に着けた事で、人格が完成される」という25歳理論。

そのアイドルに出会った15歳の時からずっと、その25歳理論を私も信じて生きてきた。
10年回の間に死にたくなるほどの恋もしたし、趣味を通じて友達もできたし、沢山のエンターテイメントから影響を受けたし、一生続けたいと思える仕事にも出会えた。
文章を書くことで自分の心から感情を削り出すことも覚えた。

けれど、この4年間の間に迎えた25歳の私は、25年ものの完成されたはずの私は、未だに全く「私」のことが解らなかった。

25年間も生きてきて自分のことが一番解らないだなんて、冗談だろうと自分でも思うけれど、それでも私という存在はいつでも崩れてしまうジェンガのようにぐらぐらと不安定で、元から背骨を持って生まれなかったかのようにぐにゃぐにゃと頼りないものだった。

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それは人格を決める上で大前提の条件、プロフィールの1番上の行、物語の最初の1ページ目に記されているはずの「性別」がぽっかり空白だったからだ。

私は女性なのか?男性なのか?女性の身体に男性の心を持って生まれたのか?女性が好きな女性なのか?男性が好きな女性なのか?男性が好きな男性なのか?

私がワンピースを着るのは女性だからなのか?それともワンピースが好きだからなのか?女装願望のある男性なのか?

私が今あの人を好きだと思ったのは女性としてだろうか?男性としてだろうか?

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自分自身の性別に関する問いはいつも私からついて離れず、それでもいつまでたっても答えの出せないもので、答えが出せないからもっとぴったりくっついてくる。
生活、恋愛、仕事、人生のあらゆる面で私は自分自身に問いかけ、自分を疑いながら生きてきたと思う。

けれど、この4年間の間に私は「ノンバイナリー/Xジェンダー」という性別に出会った。
男性でも女性でもない「私」という性別。

それは私にとって決して崩れない鉄のジェンガであり、ずっと探していた背骨だった。
掴もうとしてはするすると手から逃げ出してしまう問いの答えがやっと見つかった気がした。

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いや、本当はずっと知っていたのかもしれない。
「私は私になりたい」という自分の声を。

けれど認めて向き合うのが怖くて、アイドルを推したり、人に愛や感情を注ぐことで、
自分自身が人生という舞台の中心に立つことから逃げ回っていた。
けれどコロナ禍によってエンターテイメント業界がストップしたことで推しを奪われ、推しを推す機会も無くなって、自動的に自分と向き合う時間が増えた。

認めるのは怖かったけれど、自分に光を当てて向き合って、
2020年から2021年の間にやっと私は私を見つけることができた。

そして、なによりも良かったのは自分に光を当てることで周りも照らせるのではないかと気づけたことだ。

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私が私を見つけるまでの長い長い時間が、もしかしたら今揺れて迷ってる人を照らせる何かになるかもしれない。
だから今もこうしてこの文章を書いている。

この4年間の中でコロナ禍があってよかったとは絶対に言いたくないけれど、
25歳理論の落第生だった私にとっては必要な試練だったのではないかと思う。

これからの4年間も男でも女でも、他の誰でもない私で生きていく。
今はそれが少し怖くて、かなり楽しみだ。