小学生の頃、祖父とお風呂に入ることが習慣だった。小学生が祖父とお風呂に入る。微笑ましい景色じゃないかと思う人が大半だろう。私もその小学生というのが低学年で、一緒に湯船に入るだけならまだ微笑ましいね、と言えたかもしれない。けれど私自身の過去のことを思い出すと安易にそう言うことが出来ない。

私と祖父はいつも一緒にお風呂に入っていて、祖父はいつも私の体を洗ってくれていた。胸も股間も含めて。

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湯船に入って数分経って、祖父が「体を洗ってあげる」と言い出すのが嫌だった。

胸や股間を洗われることについて小学校低学年だった当時の私は祖父の手が胸に回ることを気持ち悪く思っており、股間をスポンジで洗われるとボディーソープがしみて痛いしもちろん気分が悪いのでやめて欲しいなぁと思っていた。けれど私はただでさえ気が弱く思ったことを言えない上、せっかく洗ってくれているのだからという気持ちから「やめて欲しい」「自分で洗えるから大丈夫」という言葉を飲み込んでいた。

どうして体を洗われる習慣が出来てしまったのだろう。当時の私には体を一人で洗える能力が十分にあった。きっと祖父が洗ってあげる、とでも言い出したのだろうが、どんな意図があったとはいえそんな提案をしないで欲しかった。背中を流すこととは訳が違う。全身を撫でるように擦るように洗われることは、自分の体を好き勝手に弄られることは、例えそこに孫を純粋に可愛がる意図しかなかったとしても不愉快なことだった。私は祖父の「お風呂に入ろう」も「体を洗ってあげる」も断れないまま何年もその痛さや気持ち悪さに耐えた。そして自分がどういう場所を洗われているのか、ということに気付いた時、祖父に失望した。

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優しい祖父だと信じていたのに、気持ち悪い人間としか思えなくなった。もしかしたら本当に体を洗うことは祖父の可愛がり方だったのかもしれない。けれどもしそう思っているなら、そう思っている人がいるなら、その可愛がり方は間違っているからやめた方が良いと伝えたい。ありふれた言葉だが人の体はその人のもので、特に胸や股間などのプライベートゾーンは本当に好きになった人にしか見せたりしてはいけないし、特に触られてはいけない。心や体の事情でやむなくプライベートゾーンに触れなければいけない場合もあると思うが、その場合も体は相手のもので相手は意思がある人間だということを忘れず、急に触ったり自分勝手に触ったりしてはいけないことを常々意識しないといけないと思う。

介護や仕事などで日常的に行う場合、効率を求めて相手の気持ちを忘れてしまうと思うが、相手は日常的に恥辱に耐えているのかもしれない。相手は日常的にやって「くれている」という気持ちから。もちろん「やれ」というのは傲慢なのでお互いに尊敬を忘れてはいけないと思う。

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私はお風呂場で体を洗う時、いつも祖父の手つきを思い出してしまう。ごしごしと無遠慮に私の体を弄った祖父の手つきを。私に痛覚などの感覚があってやめて欲しいという意思があって恥ずかしいという感情があるということを忘れた祖父の手つきを。

そしてその記憶を振り切って私はいつも体を洗う。自分の体を自分で洗うと安心する。自分がどこに触れるか分かっているから次に何をされるのかという恐怖がないし、力の強さはコントロール出来るので痛いこともない。胸も気持ち悪さを抱くことなく洗える。そうだ、私の体は私のものだ。人に渡して好き勝手させたりはしない。そう思いながら自分の体を慈しんでいる。