どちらかというと、私はひとりで過ごすことを好むタイプだと思う。

誰かと一緒にいるのが嫌いなわけではない。人と話をするのも好きだ。ただ、複数人の人が集まる場に身を置くことに対する苦手意識がどう頑張っても消えてくれない。場の人数が多くなればなるほど呼吸は浅くなり、「ああ、早く終わってくれないかな」「帰りたいな」と心の中で呟いてしまう。

 となると、想像するのも容易いが、私は友達が多くない。人間関係の枝葉がとても乏しい。

そんな自分を恥ずかしい、欠落していると思っていた時期もあったが、いや今も時折思うが、一周回って諦めがつくようになった。

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どこへ行くにも、基本的にひとりでふらふらと赴く日常。ひとり映画、ひとりカラオケ、ひとりライブ…。とはいえ近年だと「ソロ活」なんていう言葉も耳にするようになったから、ひとり行動そのものはさして物珍しいことではないとも思う。

ただ、「ひとりで過ごす時間が好きか」と聞かれたら、素直に首を縦に振るのもまた難しい。

冒頭の言葉に戻るが、あくまで「どちらかというと」という枕詞がつく。言わば、消去法によって導き出されたものだ。苦手なものを避け続けた結果、ひとり時間が増えてしまっただけに過ぎない。

とはいえ、ひとりの状態が楽であることは確かだ。誰にも気を遣わなくていいし、同時に誰からも気を遣われることがない。

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ひとりを極めたら、いつか私も「楽しい」という境地まで到達することができるのだろうか。ソロ活をエンジョイしている人生の先輩についてふと考えたとき、私の頭には2人の人物がいつも思い浮かぶ。「結婚できない男」の桑野信介と、「ソロ活女子のススメ」の五月女恵だ。どちらもフィクションの世界で生きるひとではあるが、余裕をもって自分の人生を悠々と生きているその姿は、観ていてとても気持ちが良かった。

ただ、パートナーとひとつ屋根の下で共に生活するようになってからは、時間の使い方ががらりと変わった。

少々悪い意味に聞こえてしまいそうだからあまり使いたくない言葉ではあるものの、それでも同棲が始まったのはほぼ「なし崩し」状態だったなと思う。たった1箱分の段ボールに私物を詰め込み、あれよあれよという間に彼は私の部屋に転がり込んできた。

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ひとり暮らしに慣れきっていたからなのか、彼と一緒に生活し始めてから約1ヶ月の間は、原因不明の体調不良に連日見舞われた。心は少々軟弱なものの、肉体は比較的丈夫なほうだと自負していたから、参ってしまった。朝起きてから昼近くまでは身体が使い物にならず、ベッドの上でぐったりと横になる日が多々あった。

これはあくまで個人的な推測でしかないが、おそらく、慣れ親しんだひとりの環境が彼の登場により変化したことが原因なのではないかと思う。心は歓迎モードではあったけれど、唐突な環境の変化に肉体がびっくりしてしまったのではないか、と。

同棲2ヶ月目以降は普段通りの元気を取り戻したが、一時はどうなることかと思った。精神的にも、体質的にも、私は「ひとり」を選ばざるを得ないのだろうか。誰かと一緒に暮らすのは向いていないのだろうか。そんな物哀しい危機感に襲われたからだ。

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以来、「言っとくけど僕のほうが友達全然いないよ!」と軽やかに自己申告してきた彼とふたりで過ごす時間を積み重ねること2年半弱。

ここ最近の私はというと、「ひとり」の時間の使い方がどうも下手になってきている。心がそわそわと落ち着かなくて、ぼうっとして、上手く身体に力が入らないことが少なくない。

「誰かに依存するような生き方は嫌」を人生のポリシーとしてかねてから掲げているせいか、やや不安にもなってしまう。私は、知らず知らずのうちに彼に依存してはいないだろうか。不健康な甘え方をしていないだろうか。と。

この不安をそのままぽろりと彼に吐露したら、「別に、依存したっていいんじゃないの?そんなに悪いことでもないでしょ。少なくとも僕は依存ウェルカムだけど」という何ともあっけらかんとした言葉が返ってきた。

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さらには、こうも言った。

「こないだの日曜日。僕は休みだったけど、まりちゃんは仕事でほぼ1日家にいなかったでしょ」

「うん。普段は基本的に家で仕事してるけど、あの日は珍しく1日出ずっぱりだったね」

「考えてみれば、家に僕ひとりっていう状況って今まで滅多になくて。仕事終わって家に帰ったときも、たまにある在宅勤務の日も、土日も、いつも家にはまりちゃんがいる。だから、こないだの日曜日は身体が変だった。なんか、全然機能してくれなくてさ」

「それ、まんま無気力モードのときの私だよ」

「もうね、この身体の半分はまりちゃんでできてるんだなって改めて思ったね」

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そんな会話を交わしながら、「似たような歌詞があったな、何だっけ」とふと記憶の片隅が微かに蠢いた。そうだ、米津玄師の曲だとすぐに思い出す。黄色い果物の名前が冠された、あのヒット曲。

切り分けた果実の片方を、大切な“あなた”になぞらえた、そんなフレーズが曲中にある。

“あなた”がいい。“あなた”でなければ駄目。勝手ながら、その詞から伝わってきた想いを私と彼の関係に重ねた。

かつては「ひとり」が当たり前のはずだったのに、いつの間にかその当たり前が姿かたちを変えていたらしい。

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今の当たり前は、「ふたり」だ。そして、互いの認識がぴったり一致しているということがまた、嬉しくもあった。切り分けた果実の断面と断面のように、その手触りはどこまでもなめらかで美しい。

…いや、やめよう。必要以上に綺麗な言葉で飾り立てるのは、何だからしくない。

 私は彼の隣に居たくて、そしてどうやら彼も私の隣に居たいようで。

結局の所、そんなシンプルな言葉が真理なのだと思う。どんな修飾語も、ふたりの関係においては極論いらない。

ひとりの時は首を縦には振れなかったけれど、今なら力強く頷ける。わたしの居心地のいい場所は、彼の隣だ。ふたりの時間が、何よりも好きだ。