私はコーヒーが苦手だ。香りは好きだが、どうしてもあの苦味が私の舌には合わないのだ。

高校生の頃、1つ下の妹はカフェオレが好きで、毎日のように飲んでいた記憶がある。
しかし、私はカフェオレですら苦味を感じ、全く飲めなかった。
そんな学生時代には「大人になれば自然と飲めるようになる」と疑っていなかった。

そして大学生になったとき、友人との会話で「コーヒー飲めなかったら、社会人になってカフェとか行っても、何も飲める物ないじゃん。ジュースだと恥ずかしくない?」 と、言われた。

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これをに、コーヒーが飲めるようになりたく、何度か挑戦した。
しかし、やはりあの苦味が一向に好きにはなれず、さらに飲む度にお腹の調子を崩していた。舌に合わないだけではなく、体質的にも合っていないのだと発覚した時だった。

そんな中、ある某テレビ番組の放送で、「嫌いな食べ物には何かアレルギーなど、体質的に合わない可能性がある物が多い」 と、コメンテーターが言っていた。コーヒーが苦手な理由が腑に落ちた瞬間だった。

「体質的に合わない」これは食べ物に限った話ではなく、人間関係や仕事など、人生そのものにも関係するだろう。

人間関係でも「何か合わないかも」と感じる人。どれだけ努力しても上手くいかない仕事。
自分の力量では、どうにも出来ないことはこの世の中にはたくさん存在する。

それを無理して「合うように」と自分から合わせにいくと、どこかのタイミングで何かしらの不調が起こる。

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しかし、何が合うのか、合わないのか、その感覚は合わない物を経験してみなければ分からないことも多い。

初めから食わず嫌いで「苦手かも」と避けるのではなく、踏み込んでみて判断することは、自分の経験値を上げるためにはとても大事なことだ。

その経験を踏まえてから「苦手」を判断しても遅くはない。むしろ、適切な判断ができるではないだろうか。

もし体験せずに、初めから避ける判定を下してしまうと、それは自分の価値観の中だけでの判断になり、もしかしたら合っていたかもしれない世界を経験せずに終わってしまう。それは人生の経験値を高めるためには勿体無いことだ。

確かに傷つくかもしれないし、嫌な感情を感じるなど、マイナス面で終わってしまう可能性も大いにある。だが、それは飛び込んでみないと分からないのだ。

そのマイナスを経験したからこそ、次に最高なプラスを感じることが出来る。
そのような前向きな姿勢で苦手な物と関わってみるのも悪くはないと思う。

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しかし、無理は禁物だ。私みたいに体調を崩してまで関わる必要は全くない。

そして、自分が合わないものに合わせる努力ではなく、合う環境、合う人を見つける努力は、自分が幸せな人生を送るためには必要な努力ではないかと思う。
ただ、その判断材料を少し広げてみる事はあなたの人生に深みが出てくるのではないだろうか。

最近読んだ本の中にあったある一節を紹介して、今回のエッセイを終わろうと思う。

何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである(パラケルスス)(エーリッヒ, 2020)

あなたはどんな人生を送りたいですか?