家事を本格的にするようになって2年ほど経った。
2年目というとまだ若造のようでもあるが、後輩が入ってきて指導する立場になるという場合もあり、いつまでも新人気分でいるなと叱られそうな気もする……って何の話?
家事2年生の私は、なんとなくのルーティンが形作られてきたり、最低限のラインがわかってきたりと、1年目よりは力を抜いてできるようになってきた。コロコロよりも掃除機のほうが楽だと気づいたり、けれどカーペットの髪の毛を取るなら結局コロコロだなと舞い戻ってきたり……と試行錯誤も地味に行ないながら。
生活の中に家事が”比較的”きちんと(一人暮らしのときはテキトーもいいところだった)組み込まれていったなかで、私にとってのそれは「気分転換のスイッチ/脳内ストレージを圧迫する要素」という二面性を持つようになった。
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家事のなかで最も多くの比重を占めているのは料理である。(というか他が手抜きなだけなのだけど)
バリエーションも大してないし品数も少ないのでお恥ずかしいのだけど、それでも毎日冷蔵庫の中の食材と作り置きの残量、そして昨今の食材価格事情を鑑みながら、今晩は何にしよう明日はどうしよう、とある程度の答えが出るまでずっと考えている。
実家に住んでいたとき、母は昼食時に「今日の晩御飯何がいい?」という質問を度々していた。まだ食べている最中なのに! と思っていたが、今ではその意味がよくわかる。あれは早すぎる質問では決してなかったのだ。なんなら私は前日から考えてるくらいだから。
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それに、一人暮らしのときは自分が食べる分だけを作ればよかったが、今は違う。食べる量も嗜好も異なる2人分を用意する必要があるため、決定はより困難を極める。例えば、メインに肉か魚がないと寂しいだろうな……とか。
時々狙いが外れることもあって、そういうときはしっかり落ち込む。献立決めも含めもっと気楽に構えられればいいものをとは思うが、なかなかそれができない。
おそらく「気に入ってくれるに違いない」と相手の評価を軸にしすぎるから一喜一憂するのだけど、逆に完全に自分軸にしてしまうと「作りたい」よりも「カロリーを減らしたい」あるいは「面倒」が勝ってしまいがち。実際1人のときは納豆や魚肉ソーセージ(未調理)がメインディッシュになることもあり、そのくせインスタで美味しそうなレシピ見て作ってみたいなあ、と溜息をつくのだった。
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日によって程度は違えど、悩みの種にもなっている料理。しかしそれでも私は台所に立ち続けたい。なぜならそのほうが安心できるし、気分転換の一つにもなっているから。
料理はストレス解消にもなると聞く。テレビか何かで、ストレスが溜まったときにキャベツを無心で千切りにするというエピソードを聞いたことがある。私は千切りが下手なので逆にストレスが溜まるだろうけど、材料を切って炒めて……とやっていると、他のことを一瞬でも忘れられるのだ。
特に玉ねぎを炒めていると無条件で良い香りが漂ってきて、途端に料理上手になったような錯覚に陥ることができる。みなさんも落ち込んでいるときは玉ねぎを炒めてみてほしい。嗅覚と自己肯定感をいっぺんに満たしてくれるぞ。
そしてその日の献立が完成すると、特にモチベーションが低い日は「今日も切り抜けた!」という気持ちになれる。人様に美味しい料理を提供できる自信がどうにも湧かないときはお惣菜に頼るが、そっちのほうはむしろ切り抜けた感があるかもしれない。あわよくば「よく準備した!」とほめたたえてもいいんじゃなかろうか(調子に乗りすぎ?)。
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一方で、ごくたまに「私、天才では」と自画自賛したくなるものが完成することもある。たいていはレシピのおかげだけど、それを見つけたのも、その通りに作ることができた(例えば下味や絶妙な火加減によってお肉を柔らかくできたとか)のも私の功績だ。よくやった!すごいぞ私!もう調子乗っちゃうんだから!
こういう日は作り終えたことによる達成感にボーナスポイントが加算され、次も頑張ろうと思える。毎日これなら無敵なのにね。
今の私にとって料理はテンションを左右する諸刃の剣でもあるけれど、これからもうまく付き合っていきたい。
それに腕が上がれば失敗して落ち込むことも少なくなるだろうし、自己肯定感を回復するツールにもなるかもしれない。そんな日々を夢見て、今日も台所に立つことにしよう。