祖母が亡くなった。クリスマス直前のことだった。

祖父母の家は実家から車で30分程のところにあり、ある日「帰ってこられるなら会ってほしい」と母から急に連絡が届いた。もともと仕事を納めたら帰省するついでに行く予定だったが、なぜか今すぐにでも会いに行かなければと心が動き、その週の土曜日に新幹線に飛び乗った。

そしてその行動は後に正解だったと知る。

◎          ◎

いつも嬉しそうに出迎えてくれるリビングにいたのは祖母ではなく、知らない親戚の人だった。連れていかれたのは、ほとんど入ったことのない寝室。ドアを開けて久しぶりに会った祖母を見た瞬間、もう長くはないことを悟った。

本当はショックで気付かないふりをしたかった。けれど、介護用ベッドと見慣れない酸素供給装置。パジャマの下から見えた今にも折れそうな手足。何より酸素チューブに繋がれた祖母は、大好きなお喋りもいつもの笑顔もできず、その現実を突き付けられた。

それでも私がそばに行って話しかければ、ゆっくり目を開けてくれた。後で聞けば、最近は眠ったままで目を開けるのは貴重だったらしい。帰り際、「また来るからね」と声を掛けながら、次もまた会える望みはひどく低いんだろうなとなんとなく感じてしまった。だから泣きたくなるのを抑えながら、まだ心臓を動かしている祖母をしっかりと目に焼き付けて、覚悟を決めてドアを閉めた。

◎          ◎

その数日後、祖母は息を引き取った。お葬式当日、私は体の震えを抑えるのに必死だった。

それは年の瀬間近の空気で椅子が冷たかったからでも、祖母への想いが溢れて嗚咽していたからでもない。その日の私は大役を任されていた。厳密に言えば、任されたというより立候補をしたのだけれど。というのも、葬儀の準備をしている母から誰も希望しなければ弔辞を省略しようと思ってると聞き、そんなの悲しすぎると思った私は「誰もいないなら私が読むよ」と返事をしたからである。無論、弔辞を読むのは初めてだ。

鼓鈸三通の聞き慣れないリズムに合わせて、心拍数が高まっていくのを感じた。司会者に名前を呼ばれ、立ち上がる。立候補こそしたものの一人で立つ勇気は出ず、左右に姉と妹を携えて弔辞を開いた。泣いてると勘違いされるほど緊張で声が震えたものの、無事に使命をやり遂げたが後に残ったのは達成感や満足感ではなく、不甲斐なさだった。

◎          ◎

その後、祖母の葬儀は滞りなく進み、今はもうすぐ三回忌を迎える。改めて振り返ってみると私はあの葬儀中、一滴も涙を流さなかった。もちろん家でひとり弔辞の文を練っていた時は、祖母との記憶を思い出して瞼が一重になるほど泣き腫らしたけれど。

我慢したわけでも必死に堪えたわけでもなく、葬儀当日に泣かなかったのには本当にいろんな理由がある。覚悟を決めて最期のお別れをしたから、後悔は少なかったこと。希死念慮ゆえ(ああ、ここにいるのは私のはずなのにな~)とどこか俯瞰で見ていたこと。生前、私の最後の記憶上では祖母にひどい態度をとっていた人が号泣していて、(泣くくらいならなんで同じことを繰り返しているんだろう)と冷めてしまったこと。

でも一番大きな理由は、祖母の存在を空気で感じたからである。確かに遺体は「そこ」にいる。目の前にいるのは紛れもなく祖母で、みんな棺を囲んで涙ぐんだり顔を見て感謝を伝えたりしていた。けれど、祖母はもう「そこ」にはいないと、私はなぜか自然と思ってしまった。言葉で表すのは少し難しいけれど、棺に収まっているのはただ祖母の形をした亡骸で、祖母自身は今ここに参列している人達を温かく包んでいるような雰囲気を感じたのだ。目には見えないものの、いつもの優しい笑顔で。

だから出棺前に最期の言葉を贈る時も、泣きながら今までの感謝を伝えている姉と妹の横で、私は「ありがとう」とただ一言だけ言葉を発した。周りには冷たい人だと思われたかもしれない。最期なんだから、もっと伝えたいことないの?と思われたかもしれない。でも、しょうがない。だって、目の前にいるのは祖母の外側だけであって、祖母自身は今周りを漂っているから。

祖母と二人暮らしだった祖父が火葬前に棺から離れられず涙にくれていた時も、泣いている祖父を初めて見て胸が張り裂けそうだったけれど、「そこにはいないよ」と伝えてあげたかった。「おばあちゃんは、今おじいちゃんに寄り添ってるよ」って。

以上、今まで誰にも言ったことのない、私が体験した不思議な話。