この1年間で、物凄く当たり前かもしれないけど命には限りがあるということを実感している。

2ヶ月前に癌を告知された友達のお母さんが、亡くなったと聞いた。

つい2週間前に顔を見たばかりなのに、そんなに進行が早いものなのかと驚く。

お母さんは喘息持ちでもともと身体が弱く、癌になってからもお父さんと友達が交代で看病をしたり病院への送り迎えをしていると言っていた。

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友達にはなんとLINEをしたらいいのかが分からず、スマホを握りしめたまま時間ばかりが経っていく。

「ご愁傷様」「私も悲しいよ」「大丈夫?」

頭に浮かんだどの言葉も、綺麗事のような他人事のような感じがして送信ボタンを押すことができない。

「友達のお母さんが亡くなった時にかける言葉」と検索をかけると、「ご愁傷様」はそもそも口頭の時のみ使うものだと出てきた。うかつに送らなくて良かったと安堵する。

私は親の死をというものをまだ経験していない。

もし友達の立場だとしたらどんな言葉をかけられたら心が軽くなるだろうか?といろいろと想像するも、上記のような言葉はやっぱり他人事に聞こえる気がしてしまう。

色々と考えが頭を巡ったが、結局香典を渡しに行った際に出てきた言葉は「ご愁傷様」だった。

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棺に入ったお母さんの顔はとても穏やかで、生前と同じように綺麗な顔をしていた。

このところ私の周りでは訃報が続く。この1年間で知っている人が4人亡くなっている。

友達のお母さんや小さい時から知っている母の知り合いなど、50代〜60代の人が立て続けだ。

死因は病気で、がんや腎臓病等年齢とともに出てくる病気が多い。

「人生100年時代」とはいうものの、誰がいつどこでどうなるかというのは予測ができない。明日の天気予報だって外れる時があるし。

いつだって死は突然に降りかかり、誰の身にも平等に訪れる。

本当に当たり前なことだけれど、命には限りがある。

現在無職であることから、「社会的な死」「人からの評価」「他者の目線」が気になって仕方ないまま生きている私は、2023年の終わりに「ちっぽけなことばかり気にして生きて、なんて馬鹿なのだろう」と思い至った。

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いつだって社会のヒエラルキーの底でグズグズしたまま歳だけを重ねてしまった。

命の蝋燭が数本消えてしまうのを身近で感じたことによって、大切なことを学ばせてもらえている。

私たち若者にとっては他者の目線も大事だしどうしても気になると思う。

誰がどこで何をして、何の仕事をして、誰と付き合って結婚して、どんな家に住んで、どんな服に身を包んで…。

SNSを開けばこれらの情報はヒョウのように降りしきる。

でも歳をとっていくにつれ、人や社会からの評価、見られ方というものに重きを置くよりも、自分にとって大切な人、物、生活をそれぞれの形で守り生き抜くことが人間としての使命のように感じる。それに、その方が一度きりの人生を楽しめる。

友達のお母さんは、病気ではあったけれど夫と娘に看取られて幸せにあの世へ逝ったんじゃないかと私は思う。

限りある命を、心から大切と思える時間で満たしていこう。