私は頑固だ。自分でもそう思っているし、家族や友人にも言われる。よく言えば、自分の持っている理想像に近づこうとする芯のある人だ。

しかし、理想像から離れるような結果になってしまったり、予期せぬ展開になったりすると酷く落ち込んでしまう。自分の努力不足であることは自覚しているが、それに対応しきれなかった自分に腹が立つ。

周りの人は「大丈夫だよ」「寝たらスッキリするよ」と様々な言葉で私を慰めようとする。一旦寝てみても全くスッキリしないし、私の心は大丈夫ではない。しかし、ある言葉が私の心の状況を大きく変え、それ以来、自分の感情を自身でコントロールできるようになった。

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その日、私はバドミントンの試合があった。人生で最後になるであろうバドミントンの試合だ。当時中学生だった私は、毎日のようにバドミントンの練習に打ち込んでいた。そんな中学校時代の集大成ともいえる試合では着々と勝ち進み、初めて決勝戦にいった。お互いに一歩も譲らないギリギリの試合だ。

しかし、私は致命的なミスを犯してしまった。結果は二位。負けてしまったのだ。いつもなら絶対にしない基本的なミスだ。

今までにない悔しさで、私は自分自身のミスを受け入れられなかった。試合に負けたせいで何もかもうまくいかなくなるような、周りが私を見下しているような、そんな気持ちになっていた。

今回もお決まりのごとく周りの人が「大丈夫だよ」「お疲れ様」などと全く響かない言葉を私にかけてくる。私の砕けた心はますます砕けるばかり。しかし、それらの言葉の中に私の心を修正してくれた言葉が聞こえた。
「頑張った」
その言葉を聞いた瞬間、一切自分を受け入れることができなかった自分を少しでも許そうと思えた。

今回も自分の努力不足が原因の試合ではあったが、「頑張った」はそれを全否定するのではなくこれまで行ってきた努力を認める言葉であると感じたのだ。それからは、嫌なことや行き詰ったことがあっても「頑張った」と自分自身を励まし、感情を切り替えることができるようになった。

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そんな、私のおまもりの言葉である「頑張った」をもっと好きになった出来事が起きた。それは、令和六年能登半島地震だ。

地震発生当時、私は石川県の金沢駅にいて、生まれて初めて死を感じた。長期的に大きな揺れが続いており誰もが不安と恐怖で押しつぶされそうな中だったが、意外にも被災地で一番聞いた言葉は「頑張った」だった。

大きな揺れが来るたびに、子供たちの泣き声が聞こえてくる。しかし、その地震が収まると子供たちの両親や周りの大人が子供たちに「頑張ったねえ、偉い」と声をかけている様子をいたるところで見た。

その言葉に私まで心が癒され、一緒に頑張ろうと思えた。断水が発生し何日間もお風呂に入れてない人、道に亀裂が入り家に帰ることができない人、長引く地震で体調不良になる人など、ニュースで報道されていないことも多い。そのような最悪の状況でも「頑張った」と互いに声をかけ、生きる希望を見失わない人々に私は感動した。

「頑張った」。

この言葉は今までの自分の努力を認め、心をリセットすることができる言葉でもあり、困難な状況の中でも乗り越えている自分たちを励ます、いわば未来に希望を与えてくれた言葉だ。

今後もこの言葉を人生のおまもりにして、どのような状況や結果になったとしても、最終的には「頑張った」と周りから言ってもらえるようにその場でできる最大限の自分を発揮していこうと思う。