最近の生活では、ずっとスマホと一緒にいることが増えたと思う。お出かけする時に、最低限スマホと財布だけあれば大丈夫だよね、なんて言うほどには肌身離さず持ちあるいている。まだスマホがあまり普及しておらず所持していなかった、小学生時代の私はどうやって生活していたのだろうかと思う時もある。それぐらいにはスマホが当たり前に、生活に馴染んでいる。スマホがあればメッセージを送るのも写真を撮るのも、電話をかけるのも、なんだって簡単にできる優れものだ。しかしその分、スマホに取りつかれているなと感じることも増えた。

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友人とご飯に行ったとき、旅行に行ったとき、思い出に・記念に・記録にとよく写真を撮る。でも、たまにその目的と手段が逆転してしまう事があるのだ。写真を撮るためにご飯に行く、写真を撮るために旅行に行く。SNSの投稿にしたいから……のように。それはそれで楽しいこともある。だけれど、目の前にいるはずの相手が心ここにあらずのような感じ、せっかく対面しているのにスマホを接点として会っているみたいで、どこか寂しい気持ちになる。友人のお誕生日のお祝いや、久しぶりに会う旧友、一緒に過ごす時間を大切にしたいし、共有したい。それでも、ストーリーにあげよう!ビーリアル撮ろうよ!などと当たり前のように撮影会が始まる。確かに思い出を共有しているのかもしれない、でも私は今この一瞬をリアルタイムに心に刻みたいのにな、と思う事もあるのだ。

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スマホは生活必需品で、手放せないのはよくわかる。学校の課題でも、友人との談話にも、ミュージックプレイヤーとしても使うのだから、それはまあ四六時中にらめっこするよな、と。私だって一日中スマホを握っているし、それをスクリーンタイムが物語っている。でも、時折スマホがなくても楽しく遊んで話して馬鹿をしていた小学生時代を思い出して、あの時に戻りたいと思う時がある。遊び方や、人との関わり方が変わったのは成長のせいもあるかもしれないが、やはり心の距離を感じるようになったのには変わりない。スマホのおかげで誰といつでも簡単につながれるようになったし、SNS上での友達もできるようになったけれど、やはりあの頃「親友で心友」と呼んでいた近さの関係は減ってしまった気がする。

昨年の誕生日に、ある友人から手紙をもらった。そこにはお祝いの言葉と共に、私がその友人の誕生日に書いて送った手紙への返事が書かれていた。誕生日のお祝いもSNSのメッセージで送られるものが多く、そして手紙をなかなか書かなくなった今、とても嬉しかった。祝ってくれる気持ちに大小はないけれど、一番嬉しかった。やはりお手紙は温かい。この幸せな気持ちを、友人に感謝の手紙で贈りなおそうと、私もペンをとった。ここはあえてスマホでなく、お手紙で伝えようと。

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まず、友人に似合うであろう便箋を準備して、何をどんなふうに書こうかなんて悩みながら言葉を選んでいった。友人の顔や思い出を想起し、感謝と幸せな気持ちでいっぱいになりながらペンを進めた。手紙が完成して、渡すまでは3日かかった。なかなか会うタイミングがなかったからだ。お手紙を送るのはLINEやインスタでメッセージを送るより時間はかかるし、手間かもしれない。言わば不便な部類だ。けれどその不便さが特別なものを生み出してくれると感じた。

スマホが普及してから手紙を送る機会は減り、年賀状でさえなくなりつつある。でも時にはそんな便利なスマホでなく、時間をかけて思いを込めて言葉を贈るのも素敵だなと思った。手紙を出す人口は年々減っており、2024年秋ごろから値上がりするという。手紙文化が遠くなるのに拍車がかかりそうだと、寂しく思う。それでも時には、手紙を書きたいと思った20歳の誕生日であった。スマホでなく紙に。