心躍らせながらチョコレートを作った古い思い出
バレンタインは、昔の方が華やかだったな、と思います。世間が、ではなく、私の心が。
記憶を遡れば、一番古いバレンタインの思い出は小学生のとき。クラスの男の子にあげようと、アルミホイルで作ったハートの形に、湯煎して溶かした板チョコを流しこんで固めるという、至極初歩的な手作りチョコレートに悪戦苦闘していました。
結局、当日風邪で休んでしまい渡すことはできなかったのですが、心躍らせながらチョコレート作りに勤しんだことは覚えています。
中高校生の頃は、友チョコ文化が隆盛でした。しかし高校二年生のとき、バレンタインが全校参加のマラソン大会に被るという事態に。
元々非体育会系、ただでさえ長距離走が苦手だった私は、前夜は体調を整えるためにも早々に床につきました。友チョコ作りを諦めて。
バレンタイン、そしてマラソン大会当日、会場から帰るバスの中で一部の女子から凝った手作りチョコを配られて、マラソン大会前日の平日夜にチョコを作る根性に平伏しました。車酔いに加えて疲労と甘い匂いに悪酔いしつつ、チョコ掛け蜜漬けフルーツに舌鼓を打ち、ホワイトデーにお返しすることを誓いました。
ホワイトデーに配ったプレーンとココアのクッキーは、それでもなんとかそこそこ上手に焼けていたと思います。
裏側を見てしまったのは大学生のとき。いまは割引狙いで
大学生になると、男性比率の高いところにいたこともあり、お中元やお歳暮のようにバレンタインチョコレートを選んでいました。
別に強制されてたというわけではなく、言うなれば旅行の土産のようなものでした。ホワイトデーには男性陣から旅行の土産のようなそれが返されるわけです。
また、女友達とチョコを選ぶのは楽しかったです。けれども印象に残って覚えているのは、おもしろい形やかわいらしいパッケージに盛り上がったことではないのです。
それは例えば、夜も遅い時間に大学に一番近い大型スーパーのバレンタインフェアを徘徊したときのこと。
メーカーから供給されたと思しき宣材のボール紙の立体物の裏に、「ホワイトデーにも使うので捨てないでください」の張り紙を見付けてしまい、なんとも言えない気持ちになって、苦笑いで顔を見合わせました。
そして昨今、バレンタインはもっぱら自分自身のためのものになっています。貰えば返しますし、いわゆる義理チョコ的な存在はあっても。
私のバレンタインはバレンタイン当日の後、製菓用の商品がスーパーの値引き棚に移されたときです。
お目当ては、湯煎しやすいように小さく設計されたチョコレート。それが限界まで割引きされたところで買うのです。一つ一つは小さいから甘いものを食べる罪悪感が薄まるし、安いから懐にも優しい。良いことだと思います。
知ってしまった今、もうあのドキドキは取り戻せない
しかし一方で「これ」を知ってしまっている、やってしまっている自分は、もう幼い頃のようなどきどきもわくわくも取り戻せないと思うのです。
好きな人のため、大切な人のために、甘いお菓子を心を込めて作る、選ぶ。そういった華やかな夢に溢れたものだけがバレンタインだと思っていた自分は、過去にしかいないのだ、と。
もちろん、今だからこそできるバレンタインの楽しみ方もあると思います。
小学生のときよりも使えるお金は多いし、行動範囲だって広くなりましたから。
おしゃれでお高いチョコが集まる百貨店のバレンタインフェアをはしごするとか、器具を揃えて難易度の高いチョコレート菓子の手作りに挑戦するとか。
でもそれをしたとしても、バレンタインと自分の気力を秤にかけたり、バレンタインフェアの催事場の裏側を知ったり、値引きされた製菓用チョコレートを狙ったりしている自分は消えないわけで。
バレンタインを華やかなものと信じて疑わなかったあの頃に、もう少しあのわくわくどきどきを楽しんでおけば良かったかも、と思わないでもないのです。