外を歩く時、上でも前でもなく、下を見るのが当たり前になったのはいつからだろう。
右手の相方といえば今やスマホが常識のこの世の中。
なんでも撮影して、なんでも録音して。
いつでもどこでも誰とでも繋がれる、世界が点になったこの世の中にこそ価値があるもの。
それはきっと、空気なのだ。
◎ ◎
先月、母と姉と共に、スタニスラフ・ブーニンさんのピアノコンサートへと足を運んだ。
ショパンコンクールで史上最年少優勝を成し遂げた偉大なピアニストであるブーニンさんのことを知ったのは約一年ほど前。
特集をテレビ母が見たことがきっかけだ。
ここ数年表舞台から姿を消されており、その特集があった頃、ようやくピアニストとしての再出発をされたとのことだった。
詳細な経緯はインターネットで調べていただければと思うが、私たちの家族は、元々ここ数年ショパンピアノコンクールに熱を上げており、史上最年少優勝をしたピアニストでありながら、波瀾万丈な人生を過ごされたブーニンさんに興味が絶えなかった。
そして、タイミングよく全国ツアーを開催する情報を手に入れ、迷わずチケット購入のボタンを押したのだった。
購入から公演まで約半年という期間もあり、SNSを通じて演目を予習し、コンサートで置いていかれないよう、万全の自準備で挑んだ。
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地方公演ではあったものの、満員御礼。
誰しもが、ブーニンさんの演奏を今か今かと感覚を研ぎ澄ませて待ち望んだ。
彼が舞台に現れ、ピアノの鍵盤を押した瞬間、私は全身の毛が逆立つような感覚に陥った。
病気の後遺症により思うように片手が動かないことは分かっていた。
しかしそんなことは関係なかった。
1番初めに引いたのはショパンのノクターン 第5番 嬰へ長調 作品15-2。
まるで昔を懐かしむような、切なく甘いメロディーに私の眼前は一瞬でショパンが生きていた頃のヨーロッパにタイムスリップしたような景色が広がった。
三曲ほど連続で弾いたあと、彼は立ち、私たちに一礼した。
惜しみない拍手がいつまでも鳴り止まなかったのを今でも覚えている。
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その後、休憩を挟みながら、約1時間半程彼のピアノを堪能した。
誰1人として顔を下に向けることなく。
誰1人として、彼にスマホを向けることなく。
あの場にいた全員が、その瞬間を全力で受けていたように思う。
会場から帰る際、私も姉も母も、全員が家に着くまで余韻に浸っていた。
「よかったね」
「うん、本当によかった」
「感動して涙出たわ」
「わかる、私も」
知能指数が衰えてしまったというよりかは、心地よい演奏で脳がトロトロに溶かされたようなそんな心地のいい時間を、コンサートが終わった後も堪能し続けた。
その瞬間を全力で感じたいという時はスマホなんか出してられないのだと。
その瞬間を収めたいと思っているうちは、心に余裕があるのだなと思った1日だった。
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SNS上にはアーティストのコンサート映像や表彰式でのパフォーマンス映像等が溢れんばかりに掲載されている。
その動画を批判するわけではない。
むしろありがたく見させていただいている。
しかし、ライブの映像で観客が彼ら、彼女らにスマホを向けている行動については異常だなと、今回の件で改めて感じた。
その瞬間の、空気、音、全部を全身で体感するにはあまりにも惜しいことをしているのだなと。
情報として、のちに楽しむものとして納めるのも悪くはないが、瞬間を全力で楽しむのも悪くない。
スマホを手放して、その瞬間の空、この瞬間の人生を楽しむのも悪くない。
そう思えた1日だった。