26歳、社会人2年目。まだまだ自分が未熟だと感じる時も多いけど、少しずつ仕事も面白くなってきて、金銭的にも十分一人で暮らしていける安定感。
プライベートも、お付き合いしている人とのデートも楽しいし、同性そして異性の友人とのご飯会も大切な時間。特に生活に不満もないし、毎日楽しい。

そんなときにパートナーから結婚をそろそろ考えないかって言われた。
うーん、結婚ってどう思う?
赴任地がお互いバラバラだから、どちらかが転職するのかな、それともどちらかが仕事辞める?
そもそも、今のお相手は人生のパートナーとして最適?もっと顔が整っていて、収入もよくて、感覚が合う人いるかも。正直まだもう少し遊びたいし。

令和になっても社会が求める女性の幸せ像は変わらないらしい

お話の主人公がもしも男性だったら、「結婚なんて焦らなくてもいいよ!」「もう少し遊ぼうよ!」と友人から声をかけてもらえるのだろうか。
でも残念ながら、主人公は私、女性の話。もう少し打ち明けると、彼氏にプロポーズしてもらった身。
私が友人にかけてもらうのは、「順調に幸せの階段上っているね、いいね、おめでとう!」という趣旨の言葉たち。嬉しいけれど、なんだか少し釈然としない。

令和になっても社会の求める、そして同年代の女性たちが求める“女性の幸せ像”は変わらない。20代後半に結婚し、30歳前に第一子を出産、旦那はイクメンで、女性自身も自分のペースで働き続ける働くママになる。令和になって変わったとしたら、専業主婦の夢は消え、イクメンと共にダブルインカムの家庭を築くことかしら。

たしかに妊孕性の問題は現実としてあるとしても、大学・大学院までいく女性が増えているこの時代でも、なぜ理想の結婚年齢と出産年齢は変わらないのだろうか。目指すべきわかりやすい“女性の幸せ像”は一体誰のために築かれているのだろう。

目の前の現実は何も変わらないのに、何のためのプロポーズ?

そもそもプロポーズってなんのための儀式なのだろう。もちろん「結婚したいくらい、あなたの事が好きです」という意思の表明はとてもとても嬉しかった。
でもプロポーズをされたからと言って、何も始まらない。目の前の現実は、お互いの仕事の都合が大きな壁となり、いつどこでどうやって同居できるのか見通しすら立たない状況。
親の世代のプロポーズの意味は、「この指輪をお渡しできるくらいの生活水準の給与です。あなたを幸せにしますから、僕についてきて、一生隣にいてくれませんか」といったところだろうか。
ある意味男女の役割の区別がプロポーズで指輪をパカっと見せるあのシーンに象徴されている気がしてしまう。プロポーズの瞬間は、多くの女性が一度はあこがれる幸せなシーンだけれど、このひと時の幸せな時間も現実の山積み問題を片づけるモチベーションの起爆剤にはならないようだ。

私の事を大切にするために薬指より高くないピンキーリングを選ぶ

結局のところ、社会の幸せ像にも、幼少期からの憧れのシーンにも、私の幸せの答えはないことだけが、今の私にわかること。社会的には遠回りに見えるかもしれないけれど、もう少しだけ自分自身の幸せになるルートを自分で模索したいと思う。
そのプロセスが楽しければ、きっと今の私も、未来の私も幸せだから。

プロポーズを受けた翌週の休日、左薬指のリングと一緒につけるとよりオシャレに見えるピンキーリングを買った。友人と一緒に、薬指よりも値段が高くならないように気を付けながら。パートナーの愛情とともに、自分も私の事を大切にしながら、一歩一歩。
どうか“幸せ”に貪欲な令和の女性たちが、私たち自身の幸せを感じ続けられますように。