私の視界を広げたもの、それは「女子校への入学」である。私は中学まで共学で、高校と大学は女子校なのだが、大学を女子校に決めた理由は、女子しかいない中で過ごした高校生活が、今の自分を作り上げたからだった。

自慢ではないが、私は中学時代、見た目もそこそこ良く、勉強は常に学年一位で、ピアノや書道、美術、様々な分野で賞を取ってきた。だからこそ、先生や同級生、後輩からの信頼は厚かったし、学級委員長や部活動のリーダーを任されてきた。当時は、その期待や信頼を裏切らないように、理想の私像が崩れないように、必死で努力したし、その努力を見られないように隠してきた。その一方で、嫌みな人間にならないようにあらゆる方面に配慮して、他者からは「達観している」と評価されていた。

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そんな私だったが、出願ギリギリまで志望する高校が決まらず、結局、担任に勧められた県内有数の進学校である女子校を受け、入学することになった。これが私の、視界を広げ、人生を広げるきっかけだった。女子校と言うと、「女子ばかりで陰湿そう、いじめが多そう」と言われることが多いが、決してそんなことはない。むしろ、共学と違って異性の目を気にしなくて良いので、各々が素の自分を大切に出来る。私も実際、本当の自分探しなどをしなくても、素のままの自分と向き合えた。

元来、私は妹という立場もあってか、人に甘えて生きる質であり、人前に出るのは好きではないし、人見知りだし、集団を引っ張るよりも陰で支える方が性に合っていた。当時を振り返ると、私は中学時代、本来の自分の性格を出さず、自分も他者も偽りながら過ごしていたのだと感じる。

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女子校に通うようになってから、生徒の自主性を重んじる校風も相まって、女性という性別が限られた場所で、性別も、他人の目も、理想の自分像も気にせず、自由に過ごすことができた。他人の評価ばかりを気にしていたピアノや書道は、自分の好きなようにやり、他人から頼られるように振る舞っていた態度もやめ、他人から好意的に見られるようにしていた見た目も変えた。他人に迷惑はかけない程度に、「自分の好き」を大切にすることが、私の生き方になった。

成人式に出席したとき、中学の同級生に「なんか変わったね」と言われた。それが何を意図した言葉だったのか、良い意味でなのか、悪い意味でなのかも分からない。しかし、他者からしたら私は変わったのかもしれないが、自分からしたら元の自分に戻っただけのことであった。他人の目を通して自分を見ていた私が、自分の目で自分や他人を見たとき、私は自分だけの「好き」を手に入れた。そして、自分の視界を手に入れ、未完全な自分を受け入れて好きになった時、私の視界が、世界が広がった。

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昨今、女子校の人気が低迷し、共学化する学校が増えている。また、ジェンダー教育の点からも、女子校は時代遅れと言われ、その存在意義が問われることも少なくないが、本当にそれでいいのだろうか。社会は男女が入り交じっているのだから、女子校で育つと苦労すると言う人がいるが、本当にそうだろうか。自分ではなく、他人が見たときにどう思われるかを気にしろと言われることが多いが、それは本当に、自分の視界を遮ってまでも大切にすべきことだろうか。女子校という場所が閉鎖的で、女性のみの視点で考えることを、狭い視点という人がいるかもしれない。それでも私は、女子校で過ごしたことによって、自分のことや他人のこと、それぞれの好きを受け入れられる、広い視界を手に入れた当事者として、胸を張って生きていく。