3月23日。これは、東京の桜開花予想日。今年もまた、街行く人が青空を見上げる季節が、その眩しさに目を細める季節がやってくる。
いつからか、桜に親近感を覚えていて、ほとんど同胞と認識しているふしがある。花見客に囲まれていると、見世物にされて気を悪くしていないか心配になるし、集合写真で背景に徹する姿を見れば、「俺だけはお前をそんな風に扱わない…」とおかしな男気を見せたくなる。
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そう感じるのは、自分の名前に「桜」の文字が入ることが大きな理由だと思う。自然を感じる文字が並んでいて、理科の先生に「光合成できそうだね~!」なんてよく褒められていた、私の名前。父と母がつけてくれた名前を愛している。
新卒で入った会社を3か月でやめた頃、火の玉みたいな焦りを抱えて生きていた。無職だから予定はないのに、それでも何もしないほうが辛くて、毎朝8時には起きて、近所のガストで日記を書いたり、あてもなくパソコンをいじったりしていた。早くお金を稼がなくては、転職活動をしなくては、と思うのに、自分が御社にアピールできることは何もない。心を守っていた何かをズタズタに引き裂かれて、「私は何をやらせてもダメ」「誰かの役に立つなんて無理」と本気で思っていた。
面接準備をしようとすると、経歴も成果もスキルもない現実を直視して、やっぱり自分を責めてしまう。どうしようもないループに陥ってしまったとき、自信を持って自分の長所だと思えたのは、「早起きが得意」と「名前が最高に可愛い」。その2つだけだった。
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それから3年近くが経って、どう漕ぎ着けたのか記憶もないけれど、ふんわりとやりたかった仕事と近しい仕事にありつくことができた。何のストレスもなく、自己実現に直結するような、誰かに頑張りを認めてもらえるような環境ではないけれど、それでも毎日、スッキリ目覚めた日も、世界を呪いたいような朝もパソコンの前に座り続けたことで、得たものはたくさんある。
例えば今も早起きは得意だし、もちろん名前は最高に可愛い。経歴も成果もスキルもなかった仕事も、少しは社会の歯車の一部として機能するようになった。ついでに、自分がかけてほしかった言葉を後輩にかけるようにしている。他には、昔は電子レンジに卵を入れていたのに、3日目のカレーをカレーうどんにできるようになった。貯金が底を尽きて友人にブタメンを奢ってもらっていたのに、海外旅行に行きたいと思えるくらいの貯金もできた。
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何より、あの頃は自分に「ないこと」ばかり考えていたが、目の前の暮らしにフォーカスする時間が増えた。これは、仕事や家事など毎日の生活がままならないこととほとんど同義であるが、暗い海に足を浸している時間が減ったことは、私の人生において大きな一歩である。
今年も、桜は人々を魅了して、美しく舞って、去っていく。年に一度、私だけのおまもりを思い出す美しい季節だ。父と母がくれた人生でどんな壁にぶち当たろうとも、早起きが得意なこと、名前が可愛いことだけは、死ぬまで変わらない事実である。愛の結晶、特大サイズのおまもりを、死ぬまで抱きしめて生きる。