「あの子はお礼も満足に言えない」と、義母がため息交じりに言った。それは義妹のことである。私は男兄弟の長男と結婚して、義妹(夫の弟の妻)が出来たのだが、彼女が物をもらっても何かしてもらっても、すんなりお礼を言えない。そのことを義母が嘆くのだ。けれど、私の目から見て、彼女は心根の悪い人には思えないし、お礼を言わないといっても、その態度が傲岸不遜というわけでもない。多分、極度の人見知りではにかみ屋なのだ。それで、心の中で「お礼を言おうかどうしようか」と逡巡しているうちに、その機を逸してしまう。まるで昔の私を見ているようだった。

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私も自分に自信がなく、人付き合いが上手くいった経験が少ないので、こんな私が声をかけても良いのだろうか、相手は迷惑に思わないだろうかと躊躇してしまい、自分から挨拶が出来なかった。それがまた誤解を呼び、人間関係が余計にこじれる、といった具合。

川上弘美さんの小説『これでよろしくて?』は現代の嫁姑問題を扱った小説だが、その中に「悪遠慮」という言葉が出てくる。嫁が遠慮して気を回すのだが、その不器用さが裏目裏目に出てしまい、そのような嫁の態度を指して姑が「悪遠慮」と言うのであるが、まさしく私や義妹の態度はそれだった。

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「人見知りを言い訳にしてもいいのは若いうちだけ、それも美人に限る」と、昔、職場の先輩に言われたことがある。私はそのとき、谷崎潤一郎の『細雪』の雪子を思い浮かべた。有名な話なので今さら説明するまでもないが、人見知りで不器用な雪子は何度お見合いしても縁談がまとまらない。煮え切らない態度の雪子に、それでも先方や仲人さんがかろうじて腹を立てないのは、残酷な話だが、雪子が美人だからだ。美人が無口でも相手は勝手に好意的な解釈をしてくれる。「内気」「控えめ」「奥ゆかしい」……。こう表すと美しいが、もし美人でなかったら、ただの無愛想な人だ。

私はある時から「自分は人見知りなどと言ってよい柄ではない」と、自戒するようになった。かといって初対面の人とすぐ打ち解けられるキャラクターでもないので、事前に用意していく。私は「高田」という名字だが「たかだ」ではなく、「たかた」と読む。このことをネタにして、「ジャパネットたかたです」と言うと、たいていの人は笑ってくれる。そして、「いいネタ持ってますね」と返してもらえる。誰にでも探せばそういう滑らない鉄板のネタがあるはずだ。自然体で相手に受け入れてもらおうなどというのは不遜の極みで、それなりの努力は必要。

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私がこう考えるに至ったのは、ある京大男子学生の涙ぐましい話を聞いたからだ。コミュ力が高いとはいえない彼は意中の彼女とのデートに備え、相手に喜んでもらえそうな話の種を最低3つは仕込んでいくという。一枚カードを切ってみて相手の反応がはかばかしくなかったら次のカードを出せるように。例えばピアノの発表会で緊張するのは練習不足が原因であるように、人見知りの人はそれなりの下準備がいる。もし出会う相手の趣味嗜好があらかじめ分かっているのなら、その分野についての本や映画をチェックしておくのもよい。

例えばこの前、葡萄農家の人と話さねばならない機会があった。私は小説を読むのが好きなので、葡萄作りに関する本を何冊か読み、よい葡萄の見分け方や生産の苦労について知識をつけ、あらかじめ相手への質問を準備していった。その甲斐もあり、それほど気まずくもならず座持ちさせることができた。人見知りな人は、自分一人の世界にこもって何かするのが得意なことが多い。その集中力をコミュニケーション力に還元するのだ。知識は広く浅くでよい。それから、相手に必要以上によく思われようと思わないこと。恥をかきたくないというのはプライドの高さからくるもの。恥をかいてもしょうがない、くらいに逆に開き直ってアホになってしまえれば、人付き合いは上手くいく。