自分が繊細なことは自分が一番よくわかっている。既読がつけられないのも、返信が遅いことも、結局のところ、それに帰着する。

私は自覚しているくらい、返信がとてつもなく遅い。なぜなら、既読をつけると返信を忘れてしまい、相手から責められそうで怖いからだ。メールのメッセージを読んだ後、もう一度未読に戻すのと同じ要領だ。それならばすぐに返信をすればいいという意見も聞こえてきそうだが、それはできない。なぜなら、返信は、気を遣う作業だからだ。何を返すかあらましを考え、文を作成する。もう一度読み返して、なるべく柔らかい言葉にさらに言い換える。自分の繰り出す言葉で、相手がどう感じるかを最大限考え、配慮する必要があるからだ。

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最近、最後にマルで終わる文章は怖い、という話題がネット上にあがった。マルで終わる文章が怖い、というのは私も以前から感じていたことだった。だからこそ友人からの連絡には必ず、びっくりマークをつけるか、スタンプで終わらすかにしている。逆にいうと、相手も私にそれだけの配慮をしてほしい。そうでないと、私はひどく傷つき、立ち直れなくなってしまう。言葉一つで、その言葉を投げかけてきた相手の味方で居続けることが困難になってしまうからだ。

そんな私も昔は早く返信が欲しいタイプだった。自分はなるべく早く返していたし、何日も放置する人が信じられなかった。おそらくその頃の私は暇だったからだろう。返信をする時間的余裕もあったし、返信がこない平安時代の人のような不安を感じるだけの時間的余裕もあった。

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返信がこないのは疲れていて返信できないからだよお前最低だな、と以前、言われたことがある。その言葉はとても鋭く刺さった。自分の考えが間違っていたってわかったからかもしれないし、自分自身が否定された感覚になったからかもしれない。なんにせよ、その一言が頭の中でずっとぐるぐるしているうちに、気がつくと私もその考えに同意するように、返信が遅くなるタイプになっていた。むしろ、既読をつけないことは、無意味と思って返信していないのではなく、忙しくてまだ読んでいない、というニュアンスさえも含んでいるように思えてきた。

もちろん、逆に既読をつけずに未読のままにしていることで憤る人がいることも知っている。だからそのあたりは個人差であることはよくわかる。未読であることが与える無言のメッセージを考え続ける時間は確かに苦痛だ。逆にいうと個人差だからこそ、いらぬ争いも生むのだろう。

その時も同様に、私は長い時間友人からのメッセージを未読にしていた。内容は、未読にしたまま一部だけ読める機能を使ってすぐに読んでいた。どんな内容だったかまではすでに覚えてはいないが、特段返信を急いでいる内容ではなかったと記憶している。後でいいか、と思い、何週間も放置したまま時が経った。

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ある時、三人でご飯に行くことになった。しかし、私は体調を崩し、それぞれ個別に、行けなくなったことを連絡した。一人は体調を気遣い心配をしてくれた。しかしもう一人はなぜかものすごく怒っていた。あなたは既読もつかないし返信も来ない、との一文に、その時の私は体も心も硬直したのをよく覚えている。それをきっかけに私はさらに体調を崩し、今回ばかりは治る兆しがいまだに見えていない。

この事件を機に、私はその友人と距離を置くようになった。いつまた彼女から攻撃が飛んでくるかわからず怖いからだ。彼女は私の心が疲弊してしまったことに気がついているかいないかはわからないが、最近は気を遣ってくれるようにはなった。しかし、一度感じた怖さはなかなか変わらない。彼女から一年前に来ていた連絡は、未読のまま放置している。

結局のところ、既読とか未読とかその辺りを許せる許せないの範囲は、相手との距離感次第なのだろう。それか、私自身が、何かにつけて攻撃して良さそうな何かを持っているのかもしれない。

なんにせよ、非常にもったいないことではあるが、既読という些細な行動は、人との関係性さえも変えてしまうほどの力を持つようになってしまったのだ。ある意味、私たちは試されているのかもしれない。