自分が人見知りであることに初めて気がついたのは中学に入ってからだった。それまでは地元である程度知る顔の中で育ってきたため、明るくよく話すタイプだった。
しかし、中学からは、都心の学校に通うようになり、一気に知らない人たちばかりの世界へと放り込まれた。トレードマークの笑顔も消え、誰にも話しかけられない日々が続いた。
卒業までになんとか友人はできたものの、その時の記憶はなかなかのトラウマになった。大学では絶対にそんなことはしない。そう誓い、頑張って笑顔を増やしてみたり、話しかけてみたり、自分で会を主催してみたりしている間に、色んなところでリーダーを任されるほどに成長した。
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人見知りがぶり返したのは、大学四年の研究室配属の時である。これまでの努力が嘘のように、また私は無言の静かな人に逆戻りしていた。なぜなのかはわからない。憧れのすごい人たちばかりの世界に入ることになり、恐縮したのかもしれない。
私は与えられた研究テーマの都合で、違う大学の研究室にまで出張に行くようになった。その研究室は、軍隊のように厳しいことで有名だった。本当に優秀な子達で、同時に余裕もなさそうな人たちばかりだった。
一応、お客様である私に対して厳しくあたることはなかった。しかし、ピリつく空気感の中、よそ者の私がその場にいることはなかなか耐え難いものがあった。それでも教えてもらわないと、どうにもならない。私は毎回心の調子を整え、覚悟を決めて、先輩方に教えを乞いにいった。
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私は実験が本当に苦手で、よく失敗をした。その際、落ち込みすぎても面倒と思われるし、ニヤニヤ笑っていても反省しろよと思われる。こういう時、どういう表情をするのが正解かわからない。
そんな時、社会人の30歳くらいの男性(仮にYさんとする)が、笑顔で話しかけてくれた。
「僕も学生の頃、教えてもらいにここに来ていたんだ。懐かしいって思った!」
その一言に、私はものすごく救われる思いがした。その人は、顔がどタイプで、気がついたら密かに恋をするようにまでなっていた。出張は本当につらかったが、Yさんに会うことを目的に、進んで行くようになった。しかし私は積極的な性格ではない。Yさんに話しかけることもできないまま、仕事をしている後ろ姿をずっとみていた。実験は毎度失敗を繰り返し、徐々に終電との戦いになってくる。
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「また同じ 誤ちありて あきれつつ 長居も嬉し 放課後の暮れ」
あまりに病みすぎて当時研究室短歌を作り出し、友人に送りつけた一句だ。この句をたまに見返して、当時のことを思い出す。
結局私は、研究室を代えることになった。最後まで代えるか悩んでいたのは、もうYさんと会えなくなるから、と言っても過言ではない。(いや過言かもしれない笑)。
Yさんのおかげで、人見知りの私も当時頑張れた。これから、同じような人がいれば、私も進んで声をかけ、当時苦労した経験を語り継いでいこうと思う。