この4文字を言葉にするのに、どれだけの勇気と覚悟がいるだろうか。
大人になった私たちは、この言葉をなるべく口にはしたくない。
だって、この言葉を投げかけた相手とはもう二度と会えないのかもしれないと心のどこかで分かっているから。
大好きだった祖父や親戚が亡くなった時も、私は意地でもその言葉を出さなかった。
泣きじゃくり、上ずった声で「ありがとう」と伝えるのが精一杯だった。
ふと思う。
大人になって、さよならと誰かに言ったことがあっただろうか。
ああ、思い出した。
またね。という言葉で誤魔化したあの日と、スマホの画面越しにかすれた声で呟いたあの言葉を。
きっと分かっていたのだと思う。今日が最後の日になることを。なのに、私は自分からは決定打の一言を言わなかった。いや、言えなかったのだ。自分で終わりにするなんてことできなかった。
ただその勇気も覚悟も、持ち合わさず、終焉を告げた相手を憎むことさえできなかった。
◎ ◎
現実から目を背け、淡い期待と根拠のない未来の想像だけを背負って、発した、またね。
その期待も未来も今じゃ、駅の改札口に落としてきたままだ。
どうして人は素直になれないのだろう。
失ってから気付くことしかできないのだろう。
気付いてからでは、もう遅すぎるのに。
過去の記憶との決別の為に、連絡先を消す際に発した、嗚咽交じりのさよなら。
涙はシャワーとともに、跡形もなく消えていった。
いろんな感情を泡と共に、排水口に流した私はというと、そんな苦しかった日々が存在しなかったかのように充実した日々を過ごしている。全てを忘れたわけではない。ただふとした時に、思い出したり、過去のことを振り返るように記憶が蘇ってきたりするだけだ。
でも、その想起も、ずっと私の頭の中で浮かんでいたはずなのに、しゃぼん玉のようにはじけて、消えてしまった。次の季節を迎えるころには、この執着も完全に手放せているかもしれない。
「妬む女」になるより「妬まれる女」になるほうが、周りからの評価としても、よっぽど魅力的に見えているはずだ。女性は振られるという経験をしたほうが、内面的にも外見に関しても、成長できるのかもしれない。私もこの経験がなければ、傲慢でわがままな「嫌なオンナ」になっていたかもしれない。
◎ ◎
エッセイを読んでくださっている皆さんの中にも、恋愛/友人関係で自分の元から去っていった人のことで心傷付き、苦しい思いをしている方もいらっしゃるかもしれない。
でも、私から言えることは、きっと大丈夫。あなたは可愛いし、素晴らしい心を持っている。去っていった人は、あなたの人としてのレベルが向上したことで、合わなくなって役目を果たしただけ。毎日つらく、心苦しい想いをするほど、あなたはその人を一途に愛し続けられる力があるのだから、どんな人よりも素晴らしい。
と、言われてもきっと信じられないと思う。
自分にも悪いところがあったし、私があの時、こうしていれば……と思うことがたくさんあるかもしれない。
でも、あなたはそのことに気付けた。それだけで十分だと思う。だってそのことに気付いたあなたは以前よりも輝いていて、新しい自分に生まれ変わろうとしているはずだから。
私も今の自分がきっとそうなっているはずだと信じている。
もし縁があれば、運命というものが本当に存在するのであれば、また然るべきときに出会えるはず。
だからこそ、1つの区切りとして、私が今まで避けてきた、あの言葉は必要なのだ。
この機に、今まで伝えられなかった人にいろんな気持ちをこめて、この言葉を届けようと思う。
これがあなたに捧ぐ、最後の愛の言葉。
「さよなら」