約10年前、高校3年生の受験生だった私は前期試験で志望校に合格した。

前期試験の出来に手応えがなく、後期試験に備えてまだまだ勉強漬けだった。遠方の大学ということもあり公式サイトで合否を確認したのだが、結果を見たくないあまり、開示時刻を大幅に過ぎてから、身構えつつもさりげない素振りで自分の番号を探した。そして、それを見つけた。まさか受かるとは思ってもおらず、驚きと喜びで号泣してしまった。

その年の春、関東にある志望校に入学した。ありきたりな表現だが、期待と不安でいっぱいだった。同時に、大学寮に引っ越して1人暮らしを始めた。
この大学には、毎年1000人をゆうに超える新入生が入学する。全国各地から学生が集まり、私と同じ県出身の学生も何人か見られた。しかし、同じ高校出身の人はいない。私の高校から毎年2、3人は進学しているが、私の年は私だけだった。数少ない同じ高校出身の先輩も、顔を知っていればいい方だ。

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高校に入るまで、志望校にこだわりがなかった。私は小学校高学年の頃から、医療関係の仕事をしたいという目標があった。医療を目指すとなると、志望校は絞られる。県外の医療機関で働くという発想もなかった。地元から近くて医療を学べる大学に進学できればいいと思っていた。
しかし、高校1年生の秋、私は医療を諦めた。医療系志望学生向けの現場見学で、医療従事者の目線で複数の病院を見て回った。一通り終えた後、直感的に「私は医療に向いていない」と感じた。私は勘が良い方なので、この違和感を無視することはできなかった。そして考えに考え、進路変更を決意したのだ。

将来の夢がなくなった。私は何を目指して大学に行けばいいのだろう?身近に大学で学んだ経験のある人はあまりおらず、当時は学歴の重さを全く知らなかった。正直なところ、母校(合格した志望校)の存在も、高校に進学してから認識した。こんなふわふわした状態だったから、成績も下がっていった。
信頼できる教員に相談し、無知ながらも自分なりに調べて考えた結果、行きたいと思う大学を目指すことにした。私の「色々なことを学びたい」という願望を叶えられそうな大学だ。調べる中で、行きたい大学は偏差値が高いということに気がついた。進路変更することになるから、勉強方法も選択科目も変えなければならない。効率的な勉強が苦手な分、量で勝負しなければならない。志望校を決めてから、がむしゃらに、それでもひたむきに勉強した。
ただでさえ涙もろい私が、路線変更して一か八かの受験を乗り越えた瞬間、泣かないわけがない。

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入学した学部の同期には、同郷出身の学生がいなかったこともあり、会話で地元ネタばかり採用していた。地方の田舎出身というだけで、面白がってくれる。しかし、ネタは次第に尽きていき、話し下手な私には何も話せることがなくなった。
活き活きしている周りの学生を見て、惨めに感じた。せっかく志望校に入れたのに、まだ受け身の姿勢で勉強している。興味があって入ったサークルも、いつしか義務感に追われるようになった。人と比べてばかりで自分が嫌になる。

このままでは良くない。何のために大学に進学したのだ。やりたいと思うことはためらわずにやればいい。その代わり、責任をしっかり持って行動しよう。
学部の授業に真面目に取り組むことは当然、他学部で興味がある授業も履修した。学業以外でもインカレサークルに入ったり、憧れていた1人旅もするようになった。
そして、2回の留学と大学院進学。これらは大きなアクションだった。気がついたら、周囲から「いつも動き回ってるよね」「キラキラしてる」「忙しそうで声かけられない」などと言われるようになった。喜んでいい言葉なのか微妙なところだが、私という人間を行動で示すことが出来たのだと思う。

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大学生活はあまりにも充実し過ぎていた。憧れていた大学で学問をはじめ様々な経験を積むことができたことは、私の1番の誇りだ。
現在、学生時代に強くなりすぎた自我を持った社会人らしくない社会人をしている。それでも、長期的にどんな働き方をしたいかはある程度固まっている。今の仕事には、大学時代のどの経験が欠けても巡り会えなかったかもしれない。

改めて、あの日から10年も経ったことに驚く。当時の私、よくやったなあ。しんどかったよなあ。昔の私に頭ぽんぽんしてやりたい。寂しがり屋なのは昔も今も変わらない。