わたしがキッチンに立つ理由って何だろうか。
衣食住の1つである食は、生きるために切り離せないこと。
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テクノロジーの発達で、わたしたちの生活の様々ことが人以外のものに頼ることができる。
ロボットが掃除をし、体感に合わせて温度調節をする空調機、コンビニやスーパーで増えている無人レジ、自動車の自動運転、サブスクファッションなど。
これまで、当たり前のように行なってきたことが自動化されていく。
考えなくても、AIによって人間以上の知能を持って、生活をスムーズにしてくれる便利なものばかり。
しかし、それらによって生活に余裕が生まれたのだろうか?
時短化され、空いた時間があるかのように見えるけれど、ますます忙しくなっているように感じる。
忙しいから、どんどん機械に任せの繰り返し。
そんなわたしたちは、ますます考えるということをしなくなる。
料理は、そんな人間に残された最後の手仕事ではないかと思う。
デリバリー、ミールキットや中食の充実で料理をしなくても生きるとことはできる。
しかし、ミールキットを使ったとしても最後に手を加えるのは自分自身。
わたしがキッチンに立つ理由は、おそらくそこにある。
任せようと思えば、任せることもできる料理だけれど、メニューを考え、栄養、予算、味付け、盛り付け。
料理は、総合芸術とも言える。
また、キッチンに立ちたくなるのは、不思議と忙しくてくたくたな仕事の後だったりする。
朝ごはんが楽しみで起きられるように、お味噌汁の出汁を取って準備する夜。
仕事のモチベーションが上がるようなおかずを入れたお弁当を作る朝。
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仕事は、自分という本当の姿を消し、外面で人と関わり、理不尽なことと向き合わないといけない。
ストレスばかり溜まっていく日々の中で、キッチンに立つと、無心になれて、ある意味〝無〟の状態で自分と向き合える。
自分の好きなものを、好きなタイミングで、好みの量で味付けで、全部が自分のため。
手を動かすことで、リフレッシュもされる。
機械に任せることが多くなって、逆に手間ひまをかけることを求めているのではないかとも思う。
日本には、四季があり、食を通して季節を感じることが多い。
お正月にはお節料理で、1年の始まりを祝い、おせちの中身は1つ1つに意味がある。
節分、節句、夏至、冬至など旬の食材で季節を楽しむ文化がある。
現代は、旬は関係なくどんな食材もいつでも食べることができる。
あえて、季節のイベントの食を意識してみる。
あえて、手間をかけて作ってみる。
そうすると、使ったことない食材に触れ、料理を通して、食べ方を学ぶことができる。
わたしは、あえて、面倒を選択し、手間を惜しまないことを意識してやっていきたい。
わたしがキッチンに立つ理由は、食を通して、暮らしを豊かにしたいから。
誰かのためではなく、自分自身のために。