新卒入社した企業で、勤続11年目になる。あのころ眩しく見えていた先輩方と同じフェーズに立っているとは恐ろしい話だが、そんな自分でも新入社員の目にはきっと「何者」かに映ってしまうのだろう。
入社動機は「場の創造をしたいから」。全国の都市で商業施設の店舗運営やプロモーションの仕事に携わった。自身のアイディアが詰まった企画でお客様に喜んでいただいたり、尊敬する方々とお仕事ができたりすることに、誇らしさとやりがいを感じていたものだった。

キャリアへの不安が色濃くなったのは、終わりの見えないコロナ禍で地方から東京へ異動したときのこと。順調に上がってきたポジションが停滞し、突出したスキルも行きたい部署もなければ、叶えたい夢も抱けず「この先」がすっかり描けなくなってしまっていた。
数ヶ月悩んでも打開策は見出せず、逃げ出したくて登録した転職サイトの「職務経歴書」に着手して愕然とした気持ちをはっきりと覚えている。

携わった業務を羅列してみても、自分が明確に名乗れる「職種」は存在しなかった。総合職のジェネラリストで生きてきた私は、営業でも広報でもマーケターでも、何者でもない。

入社して9年目、何をしてきたのだろうとショックだった。

◎          ◎ 

とはいえ、好きで深掘りしてきた広報PRの経験とスキルをもって、最終面接までいった企業も数社あった。しかし私には「現職でやりきった」という思いもなければ「新天地で自分のスキルを活かす」覚悟もなく、1社も内定をもらえなかったのだ。

選べも選ばれもしない日々が苦しかった。思い返せば大学時代の就職活動も似たようなもので、面接慣れしてきたころに初めて内定をくれた今の会社が神のように思え、即入社を決めたのだった。自分のことをよく知らず、憧れだけで居場所を決めようとするところが、変わっていないのだとよく分かった。

次の行き先は決まらないが、このまま次の内示を待つのも心が耐えきれない。当時社内で始まったばかりだった、越境学習としてスタートアップ企業に出向できる「他社留学プログラム」の公募にすがる思いで手を挙げた。

すると切実さが伝わったのか、なんとか候補者になることができたのだ。ひとまず苦しみからは解放されたと安堵したものの、前例もほぼないところに別の不安で胸がいっぱいだった。

当時31歳の私は、転職未経験のまま、全社員がこれまでの一部署ほどの人数しかいない企業で6ヶ月半ほど働いた。PCも携帯も、自社・出向先・プライベートの3台を所持。それでいて名刺は出向先のものしか持たない奇妙な状態。

既存のスキルを可視化し、新規の経験を増やしながら勤しむ日々では、自分が会社の担い手の1人になっている確かな手ごたえがあった。
「自社以外でも自分は働けるのかもしれない」と思えたことが、自信を、そしてキャリアそのものを、取り戻してくれた感覚だった。

◎          ◎ 

他社留学の期間で一番大きかったのは「コミュニティを仕事にする」人たちと出会えたことだ。オンライン・オフラインを問わず、人々が集う場を生み出し運営している人たちの存在を知った。

そこで私は、商業施設の運営を通して、自分がずっと店舗や街でコミュニティをつくってきたのだと理解ができたのだ。イベントの企画運営、広報PR、SNS運用、空間づくり、契約。取り組んできた仕事はひとつも無駄ではなくて、何かが必ず何かにつながること、応用できることを改めて実感できた。

キャリアの文脈を回収できた感動は生涯忘れることはないだろう。

このまま「外」に出てしまおうか迷ったが、自社に複数の部署や数百人の社員が存在する環境、これまで培われた仕事の実績や人脈は、財産なのだとも悟っていた。やはり一度自社に戻って、得たものを活かしてみようと決意したのだった。
他社留学を終えた私は今、新規事業を開発する部署へ身を置いている。既存事業とは別の立ち位置で会社の未来をつくる仕事は、難しくも挑戦しがいのある領域だ。既存事業を長く経験させてもらい、外の世界も見てきた自分だからこそ、貢献できる価値があると信じながら日々もがいている。飛び出したくてたまらなかった会社が、いまでは出向先や友人関係と同じように、所属していたいコミュニティのひとつとして存在している。

ぶつかったと思った「壁」は、新たな世界への「扉」だったのかもしれない。その向こうに広がる未来へ踏み出せたのだから。
いつかまた壁と対峙するときが来ても、それを扉だと信じられる自分でいたい。鍵穴を探して、いろんな鍵を挿してみたい。鍵を持っていることも増やしていけることも知っているから、私はきっとこれからも扉を開け続けていける。

何者でもなかったことに迷う私は、もういない。