「あきのつきさん、今までありがとう。私なんかに、明るく挨拶してくれて、心強かった。本当にありがとう」。
そのように言った彼女は、口角を頑張って上げて、ただ一生懸命に笑顔を作っていた。しかし華やかなアイシャドウに縁取られた目元に徐々に涙が溜まっていった。
彼女はこの日、退職した。
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彼女の仕事は会社の受付である。お名前は仮名でAさんとする。
Aさんは、毎朝きちんとした格好でお出迎えをしてくださった。巻いた髪の毛をポニーテールに結って、結び目に深緑色のリボンのクリップをつけていた。Aさんの毎日の整った爽やかな身だしなみは、お寝坊さんである私には難しく、ただただすごいなぁと感心していた。自分に厳しくできる人をやはり尊敬してしまうのだ。
また、Aさんは、身だしなみをきちんとしている所はもちろん、いつも色んな社員やお客様に笑顔で応対していた。早朝からいつも明るく朗らかだった。
私はその朗らかさに救われた一人である。例えば、同じ部署の先輩に嫌味を言われた次の日とか会社に行くことが辛かった。会社に入ることが辛かった。帰りたくなった。でもAさんの「あきのつきさん、おはようございます!」の言葉で自分にも仲間がいるんだと前向きになれた。大袈裟かもしれないが、救いになっていた。Aさんに会って安心感と勇気を得て、針のむしろの職場に向かっていった。
彼女はいつもその姿勢を崩さなかった。大事なこと、正しいことだと知っていらっしゃるからだろう。きちんとした身だしなみと対応は、彼女の矜恃を支えているものだと私は思っている。
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反面、そんなAさんをよく思わない人たちもいた。その人たちは私と同じ部署にいた。彼女らは、Aさんを「女らしい格好をしている」「女っぽいよね」「私も『〇〇部長♡』『〇〇次長♡』って男に媚びてみようかしらね」と毎度コソコソと会話をしていた。大人になってからも何てくだらない内容で会話をしているんだろうか。
直接的な暴言や悪口では無い。もちろん、彼女らはずる賢いのでAさんがいる前でそういうことはしていない。パワハラモラハラで通告は難しい。しかし、目配せ、言い回しから伝わる暗黙の了解、「疎外感」「あなたと私たちとは違う」の仲間はずれの感覚。からかうようなAさんの口真似。集団でよってたかって…何だか嫌な雰囲気だった。
当時、新入社員だった私はその場面を見た時、彼女らにいじめられるのが怖くて、反論できなかった。正直みっともなかった。そんな自分が嫌だった。だからこそ、毎日Aさんからの挨拶にしっかり挨拶を返して、少なくとも私は味方だよ、あなたの行動を尊敬しているよと暗黙の了解で伝えようと心に決めた。
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冒頭に戻る。
Aさんがお別れの言葉を言ったその場には、例の意地悪な集団もいた。元々怖い顔をした人たちだが、この日はより一層Aさんを遠巻きに見てにらんでいるように見えた。
だからこそ私はAさんにちゃんと伝えなければならない。
「こちらこそ、Aさんにはとてもお世話になりました。Aさんみたいに、朝から笑顔で皆さんをお迎えすること、見習います」
もちろん、私だけじゃない。Aさんのいい所を見ている人はいっぱい、いっぱいいると思いを込めながら。