「人生は選択の連続である」
という言葉を時々耳にする。
たしかにそうだなあ、と思う。
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人生において、ターニングポイントとも呼べるような、「道」と表現するに相応しい選択は記憶にも残りやすいだろう。
しかし人生は、「道」と言ってしまうほど大きな選択ばかりではない。
むしろ、意識にも上らないような、小さな小さな選択の方がよっぽど多いはずである。
さまざまに下す選択の中で、わたしには「あえて選ばない道」というものが結構ある。
今日はそのことについて話してみようと思う。
例えば ”香り” がその一つである。
香水が好きで、いくつか持っている。
また、自分が好きな香りというのももちろんある。
世間一般的に人気な香りといえば、キンモクセイは有名どころだろうか。
秋の風物詩とも言えるあの情景を、香りに閉じ込めたいと、閉じ込めて持ち運びたいと、そして自分も纏いたいと、そう思った人の気持ちはとてもよく分かる。
しかし思うのだ。
金木犀は、「夏みたいな青空だけど、どこか涼しげで乾いた風がそよいでいる昼下がりに、なんの気無しに通った道で思わず振り返ってしまうほどの甘い香り」という情景ありきで "良い"のである。
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わたしはどうしても、香水のキンモクセイとあの秋の散歩道で香る金木犀が同じ香りには思えないのである。
そしてそれを四季を問わず年中つけてしまえることがナンセンスだなあ、とも思ってしまうのだ。
だからわたしは、キンモクセイの香水は買わない。
もう一つ、選ばない香りがある。
それは紅茶の香りである。
紅茶も金木犀と同じで、「休日の昼下がりに、お気に入りのティーポットとマグカップを出して『今日はこれ』と、茶葉とお茶請けを選び、それを淹れて飲み頃を待つ、あの時間の流れが途端にゆっくりになる瞬間に立つ香り」という情景があるから、"良い"のである。
紅茶の香りも香水になると興味がなくなってしまうから選ばない。
と、このように語ると、サクラの香りやコーヒーの香りも同じ理屈で選ばない人になってしまうのだが、サクラの香りやコーヒーの香りのする香水は好きで持っていたりするのもまた、わたし個人の趣味嗜好という人間らしさで許してもらおうと思っている。
というよりはむしろ、わたしはそんなわたし自身を「許す」という選択をしている。
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ちなみにこれも人気のある香りの一つだと思うのだが、「石鹸の香り」だけは本当に嫌で選ばない。
道ですれ違うお年寄りの香り、という認識をわたしの脳がしてしまっているのだ。
この話を理解してくれたのは会社の特別仲が良いわけでもなかった同僚ただ1人だったのだが、「石鹸の香り」だけはちょっと受け入れられない。
香りだけではなくて、食にも「あえて選ばない」ものがある。
チョコレート”味”というのを、わたしはあまり選ばない。
チョコレートの良さは、「舌に乗せた瞬間から柔らかく解けていく口溶けと、その中で感じるカカオの味と香りと、飲み込んだ後の余韻」ではないだろうか。
そしてその余韻の中で嗜むお茶とかコーヒーとかウイスキーとか、そのまとまりまで含めて美味しいのである。
そのため、急にチョコレート"味"になると選択肢から外れてしまう。
ただ甘いだけなのは正義じゃないと思うのだ。
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何が言いたいかというと、"清涼飲料水"も選ばないということである。
これはシンプルに味が好きじゃないから、なのだが、あの甘ったるさと、よくわからない味のついた飲み物をどうも好きになれないのだ。
全部同じ味にしか思えないので清涼飲料水と一括りにしてしまったが、特にメロンソーダ、あれは最も解せない清涼飲料水だと思う。
あれほどキラキラして涼しげで完璧なビジュアルをしていて、子供心をくすぐってくるにも関わらず、期待を込めて味わってみればただのかき氷シロップの炭酸水割りである。
あんなにも全身で絶望を味わえる飲み物をわたしは知らない。
そういうわけで、清涼飲料水に付随するドリンクバーなんかも、あえて選ぶはずがないのだ。
選んでも楽しくないのでね。
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この、「選ばない」という選択はわたしの人生のQOLを上げていると思っている。
好きや嫌いを他人に開示すると、特に「嫌い」側で見られる現象に思えるが、「人生損してるよ!」という言葉に出会いがちである。
本当に余計なお世話だと思う。
むしろ、選ばないものを選んで嗜もうとする時、最もわたしのQOLが下がっていると言える。
「選ばない」ことを選ぶことは人生をちょっとだけ豊かにしてくれる。