あの日から母との関係が変わってしまった。
友達のようになんでも話せる関係、そんな母親と娘でいたかった。
「実は相手は男の人じゃないんだ」
「嘘でしょ?」
かなり長い沈黙のあとの母の一言目だった。
あのときの母の表情、声のトーン、細かいシチュエーションはすべてはっきり覚えている。
22年間、母のあんな顔は見たことがなかった。
私は22年間の人生で初めて母を失望させた。
私が女性とお付き合いしていることを告げたあの日に、初めて母は私に失望した。
◎ ◎
私はこれまで、母の期待を裏切らない"いい子"だった。授業の成績、学校での取り組み、習い事での態度、おそらくどれをとっても母が思う通りにちゃんとやってきた娘だった。
母は「いい娘さんですね」と言われることをとても誇りに思っていたようだった。
だから、私は母に進められた習い事はしっかり続け、真面目に授業を受け、必死に勉強もし、母の期待通りの大学に入った。
そんな娘から、突然言われたカミングアウトに、母は明らかに戸惑っていた。
戸惑う、なんていう言葉では足りない。何も考えられなくなっていたようだった。
初めて見る母の表情に、私も頭が真っ白になった。たくさん言葉を用意したはずなのに、何も口からでてこない。早く何か言わなきゃ、母を安心させることを言わなきゃ。
「まだ男の人も好きになれるんだよね?」
私が必死で言葉を探していると、先に母の方から言われた。
まだ娘には期待を抱いていたい、"普通"の道を歩む選択肢が残されていて欲しい。そんな母の気持ちが表れた言葉だった。
「わからない」
私の答えに、母が頭を抱えた。
◎ ◎
時間を戻したかった。最悪な時間だった。
母なら、理解してくれると思っていた過去の楽観的な自分に怒りがわいた。
これが現実なんだよ。そう言ってやりたかった。
あれ以降、あの日のカミングアウトをなかったかのように振る舞う母に違和感を覚えた。
私の恋愛の話には一切触れずに、私の友人が結婚した話を私に振ってくる。
「中学のときの〜ちゃん、結婚したらしいね。旦那さんはどんな人なの?」
兄が結婚することになり、私の衣装を選んでいたとき、私のウエディングドレスはこんなのが似合いそうだねと真っ白なドレスをあてがわれた。
あれ、忘れてるの?
いや、母にとっては、忘れたい記憶なんだ。なんとかして、娘を"普通"に戻したいんだ。
私は失敗なのだろうか。私は私を受け入れてもらえないのだろうか。ありのままの自分でいてはいけないのだろうか。
◎ ◎
母とまたこの話をするのは嫌だった。でも私はこのまま、なかったことにされるのが怖かった。なんとか伝えなければいけない。そう思い、兄の結婚の話がでたときに改めて自分の話をした。あのカミングアウトから2年以上は経っていた。
「私は多分、普通の人生は歩めないと思う。期待には応えられないと思う。ここまで育ててくれたことには感謝してるけど、私は自分の幸せを選びたい」
「それはもちろん、娘の幸せがいちばんだよ」
いい返事だった。この2年で、母の中の何かが変わったのだろうか。
「でも」
変わってなかった。
どうせ「でも」って続くんだよね。この「でも」で、どこか自分の中にあった期待がほぼゼロになった。
もう何も聞きたくなかった。その後に言われた言葉は覚えているが、もうどうでもいい。
結局、私が否定されたことだけはわかったから。
◎ ◎
この関係は、もう修復できないと悟った。もう友達のような母と娘などあり得ない。私はただ、受け入れて欲しいだけなのに。全力のサポートや、周囲から理解してもらうための努力など、してもらう必要はない。
ただ、私を受け入れて欲しい。
母と娘なら、特別な関係を期待していた。時間はかかっても、必ず理解してもらえるはずだ、絶対大丈夫だと思っていた。
でも、私の中に残っていた期待はほとんどなくなってしまった。もう、母に伝えたい言葉もでてこないし、話すためのエネルギーも使いたくないと思ってしまった。
これは戦いではないけれど、戦意喪失という言葉が今の私にはぴったりな気がする。
またこれから気まずい会話をするのかな。
もう母を失望させないように、必死で明るい話題を作らなきゃいけないのかな。
私は自分が感情に振り回されないよう、できるだけ"省エネ"でやっていくしかない。
母のために、自分を変えることはしたくない。自分の幸せを諦めることはしたくない。
もう期待はしない。
こんな考えは寂しいけれど、私は自分の平穏を保つために、無理やりそう思うことにする。不本意で、一時的だけれど、これがいちばんの方法だった。
私はこの思いを抱えたまま、これからどうやって生きていこうか?