友達が結婚した。めでたい。「お祝いの日」である。

一言で"友達"と言っても、学生時代の同期で、顔馴染み程度の仲である。学生だった時も必要以上にしゃべったことはなかったし、卒業してからも、何かしらの手段で連絡を取っていたり定期的に会ったりなんかはしたことのない、”友達”というよりはむしろ、”知り合い”と言い切ってしまった方がしっくりくるくらいの子だ。

それでもSNSでは繋がりがあり、その子の日常を垣間見ることはあった。パートナーと仲良くしていることはよく知っていたし、いずれ結婚するのだろうなとは思っていた。
その”いずれ”が、”今”だっただけの話である。

わたしはこの子の結婚を、SNSで知ったわけであるが、それ以降すごく、焦燥感に駆られていた。

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わたしにもパートナーがいないわけではない。

”わけではない”どころか、何年もお付き合いをしていて、わたしのことをすごく理解しようとしてくれている、優しい人である。時々、結婚の話はしていて、わたしはいつか結婚出来たら嬉しいな、と思っている。
そもそも結婚なんて、2人の問題なのだ。誰かと比べること自体があまりにも愚かであることは、自分でもわかっているのだが。わたしたちにはわたしたちのペースがあることも、頭ではわかっているのだけれど。
なんだか、すごくドキッとした。怖くなった。
何かに、誰かに、みんなに、置いて行かれているような気持ちになった。

わたしは、大学卒業後の進路を、資格を取るために働きながら学ぶ、という選択をした。
だからつい先日まで、正規雇用されているみんなとは違う雇用形態で働いていた。やっと資格を取得して、正規雇用までこぎつけたところである。
みんなより、丸何年か遅れていると言っても過言ではない。そのため給与も、基本給のみの生活が何年か続いてた。生活費や娯楽費に加えて、膨大な額の奨学金も返済しなければならない。貯金どころか、毎月どうやって切り抜けるかを必死で考える日々だった。

苦しかった。

みんなは学生時代に取った資格で、きちんと手に職つけて働いている。きっと、貯金もそこそこできているはずで、それでいて休暇も満喫しているのだろう。結婚する余裕もあるのだろう。
お祝いの日なのに、心からお祝いできていないわたしがそこにはいた。

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自分で選んだ道は、資格を取りたいというわたしのわがままだったから、パートナーとは生活の拠点を別々にするしかなかった。

それで寂しい思いをさせていることが、すごく悔しかった。
わたしも、すごくすごく寂しかった。

こんなにも一緒にいたいのに、だからと言って曲がりなりにもひとつのことを目標にして今まで積み上げてきた過去を言い訳にして、全部捨てる勇気のひとつもない自分自身のことを、不甲斐ないと思った。
そのせいで、パートナーが辛い時に側で支えることができないということが、何よりもやるせなかった。パートナーが何か嬉しいことがあった時に、隣で共有できないということが、あまりにも虚しかった。

離れて暮らしているせいで、交際費が生活費を圧迫していることも、辛かった。そのせいで貯金ができないと思ってしまう自分にも、心底腹が立った。

自分で選んだ道なのに、そのことがとにかく惨めに思えた。
せっかくのお祝いの日なのに。

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でも、それは誰のお祝いの日だったっけ?
わたしじゃない。家族でもない。パートナーでも、この人は大切にしたいと心から思うような友人でもない。昔の”知り合い”のお祝いの日である。

比べる必要はないだろう。
誰かのお祝いの日に、自分が悲しかったり悔しかったりしても良いだろう。
わたしのお祝いの日を、同じように喜ばない人がいても良いだろう。
心からお祝いの気持ちがなくとも、笑顔でおめでとうと言えたら、なかなか良いふるまいじゃないか。

わたしだってやっと、資格を取ったのである。
中学生の頃から目指していた念願の資格である。ちょう、めでたい。お祝いの日だ。
わたしはわたしと、大切にしたいと思える人たちのお祝いの日に、「おめでとう」と心から言えるだけで十分なんじゃないだろうか。