大声で泣いて生まれてきた私を、初めて抱き上げた母の顔。
母親にとって、誕生のその瞬間は一番の記憶であろう。なぜ子である私は覚えていられないのだろう。 

「愛されて育ったんですね」と、幼い頃は先生に、社会に出てからは上司など、様々な目上の人から言われてきた。そして少なくとも学生時代は「世間知らず」を意味する嫌味だと信じて疑わなかったので、そう言われるのは気に食わなかった。第一、母は私の顔を見れば勉強勉強と言い続けていたし、私が好きだと思ったもの、良いと思ったことには何から何まで事細かに批評および指導があった。それは愛の対極であると強く思っていた。

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母との関係に、深く影を落とした時期がある。私が大学受験に大失敗して精神的にかなり辛かった時期だ。ある時、母にこう言われた。「大学に落ちたなんて、そんなことは後からどうでも良くなる」。私は呆然とした。母だけは、幼い頃から隙あらば勉強しなさいと言い、良い学校に行きなさいと言い続けてきた母だけは、努力しても認められなかった私の辛さを憐れんでくれると思っていたのだが。なんとそれは、母にとっては「どうでも良い」ことだったのだ。

至極どうでも良いことに、この18年を捧げさせるために私を怒り、勉強しなさいと縛り続けたのか。そんなことをしてやろうと思えるほど、私が憎いのか。私の今までの我慢があの時爆発した。

私は母をここぞとばかりに責め続けた。言いたいことを全部ぶちまけて喧嘩した。母は絶対に私の主張を認めず、「あんたはいっつも被害者ヅラ。お母さんはいつもサンドバッグ」と私に言った。母は私を突き放した。私はこれまで必死に期待に応えようとしてきたのに、母は決して私の期待には応えなかった。責めている裏にある、ただ自分の価値を見失ってしまった心を抱きしめてほしいという願いは、届かなかった。

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社会に出て、そのどこまでも虚ろな厳しさを知った今ならわかる。母はとにかく私を彼女の精一杯の命を懸けて産んだうえで、「育てた」のだ。一人で食べていけるように。困らないように。それには、勉強させて、良い大学に行かせ、どこか職を得させるのがもっとも安全で確実なのだ。他人の目を持ち出して叱れば、社会の爪弾きにされるリスクが減るのだ。それは、私を守りたいという母の全てだった。一番最初の子供である私を、これでもかというほど、守りたかったのだ。

分厚いアルバムいっぱいに貼られた、自分が赤ちゃんだったころの写真たち。それを一枚一枚台紙に貼り付けていった母の姿を思う。気づけば、自分は一体何を握りしめつづけているんだろう、と苦しくなった。そして、悟ったのだ。もう、認めるしかないんだろうと。愛は期待通りに与えられるものではない。そして期待するものでもない。関わることそれ自体が、愛なんだと。愛は常に深くあたたかいと思っていたが、それは言葉にするものではなく、この身体の歴史そのものである、と。

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「愛されて育ったんですね」というのは、今の私にとってはそっくりそのままの意味だ。勉強のことで数えきれないほど夜中までお説教されたし、ゴミ袋と一緒に外に出されたり、確かに今でも覚えているような嫌な出来事はたくさんあった。でもなぜ、それらを頑なに自分の心にコレクションし取り出しては眺め、手入れし続けてきたんだろう。親の心子知らず、ここに極まれり。いい意味で、親には期待してはならないのだ。与えられたこの土壌で生きていくということ。一日でも多く、朗らかに笑って生きていよう。それが私の、母への愛だ。  

大声で泣いて生まれてきた私を、初めて抱き上げた母の、私の知りえぬその姿。最期まで生きよう、と思わせる姿。

それが母の御業だ。