いつの間にか、誕生日が嫌いになった。
理由その1は、歳をとっても嬉しくない年齢になったから。
お酒も煙草も解禁される20歳に達してからは、歳を取りたい理由がなくなったのだ。これから先解禁されるのは、何十年後かに年金支給くらい。
自分よりも若い世代を見ると、彼女たちの広がる可能性に嫉妬して、そして焦ってしまう。若者の活躍を素直に喜べない人間、ここに誕生。そんな自分の小ささにも涙する。
昔は1秒でも早く大人になりたかったはずなのに、そんな気持ちがパタリとなくなってしまったのは、多分私が大人になってしまったからだろう。
金髪ベリーショートに、真っ赤な口紅とヒール。花柄ド派手なブラウスに白いパンツが似合うアクティブでポジティブなお婆ちゃんになってみたいという夢はある。けれど今はまだ微塵も叶う気がしないから、歳を重ねることが怖くて仕方がない。
自分に言い聞かせるために繰り返している「年齢なんてただの背番号」という言葉を、いつか本心で言えるようになることを祈っている。
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理由その2は、自分の価値が明確になってしまうような気がするから。
誕生日に送られてくるメッセージの数と内容、プレゼントの数、サプライズの有無、自分の誕生日を覚えていてくれた人の数、Instagramのストーリーズで周りを巻き込んでお祝いしてくれる友人の有無、そして「いいね!」の数。
全部どうでもいいことなのはわかってる。これらが多かったら優れた人間というわけではないということもわかっている。だけど自分自身の価値や、存在意味が、顕在化してしまう気がして、心のザワザワが止まらない。
少しでも価値ある人間だと自分で思いたい私は、バカみたいに必死に去年と今年の誕生日に来たお祝いメッセージの数を数えてしまったりする。そしてその後に、そんな愚かな自分が少し嫌いになったりする。
個別のメッセージは他人には見えないけれど、InstagramのようなSNSは友人の祝われ方が見えてしまうからよくない。○○ちゃんは、誕生日に彼氏から花束をもらっている。○○ちゃんは家族で美味しいディナーに行って、○○ちゃんには仕事終わりにわざわざ駆けつけてくれる親しい友人たちがいる。
隣の芝生が青くて青くて、青すぎて落ち込んでしまう誕生日が定番だった。祝ってくれる友人や家族、恋人がいないわけではない。一通り周囲に祝ってもらっておきながら、勝手にSNS上で見える他人の価値と己の価値を比べて「私にはこんな友達いない」と枕を濡らすのだから、失礼極まりない。
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数週間前、私は26歳の誕生日を迎えた。
と同時に、新しい職場で働き始めた。
誕生日にSNSに張り付いて、他人と比較してくだらない一喜一憂を繰り返すくらいなら、労働に勤しもうと思ったのである。
その日初めて会う職場の方々は、私が今日誕生日だということをもちろん誰も知らなかった。上司は当たり前のように私に仕事を基礎から教え、お客様は入ったばかりの私が知る由もないことを当然のように聞いてくる。そこにあったのはなんの変哲もない日常で、人々が日々積み重ねているただの1日に過ぎなかったのだ。
365日の1日。それを身をもって体感した26歳の誕生日は、ここ数年で一番嫌じゃなかったかもしれない。