私の住む地域には十ほどの寺があった。そして私が通っていた幼稚園も日蓮正宗の寺が連携している所だった。私は仏教が嫌いだった。なぜかと言われれば答えることは出来ないけれど、周りを寺に囲まれてきたからかもううんざりだという風だったのだと思う。
毎朝集会があってお経を読まされる。私は寺出身の子どもではなかったので当然ながらお経は読めない。周りのみんなが読めているのに自分だけ、という劣等感があった。それなりに楽しい子ども時代だったが、小学校に上がった当時は一人だけそんな寺管轄の幼稚園上がりだったことを恥じていた。
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これは私が小学校の頃の話だ。その頃の私は小さな嘘をよくついていた。子供の嘘なんて可愛いものだが、私の場合は人の興味を引くための嘘だったので、まあ自分でかえりみてみると恥ずかしいことをしていたと思う。
小学校高学年になったときくらいか、私の小学校では近くの山に植樹をするイベントのようなものが毎年行われていた。彼岸花のよく映える小さなお寺の脇から山道をぬけ、澄んだ空気をまとう山に皆でぞろぞろと入っていった。
そのお寺の和尚さんと地域の方が毎年案内をしてくれるので、それぞれ組に別れて植樹の準備をしていた。それが何かのご縁なのか、私の組は和尚さんが担当をしている組だった。
山に入っていく中でその和尚さんは私たちにこう話し始めた。
「山に自然にはえている木は皆曲がりくねっている。自然と真っ直ぐはえている木なんてない。でも、曲がった木を真っ直ぐにする方法はある。紐かなんかで木を引っ張っておけば長い年月をかけて真っ直ぐで美しく逞しい木になるんだ。これが何を表しているのか、それはこの世に元から真っ直ぐで正直な人なんていないってことなんだ」
そう言った和尚さんを見上げ、私は何を言ってるんだろうと思ったことを覚えている。しかし、和尚さんは私たちの不思議そうな顔を見て穏やかに笑っていた。
「でも世の中には正直者と呼ばれる人たちがいる。素直だと言われる人たちもいる。それはなぜか、その人あるいは周りの人がその嘘を正していたからだ。真っ直ぐになるためには自分に正直に生きなさい」
小学生の私には意味が分からなかった。正したところで何になるんだ、正直に生きることの何が楽しいんだ、などと思っていたのだろう。
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しかし高校生の今分かったことがある。当時正直者とはお世辞にもいえなかった私は今、仏様の教えを信じて、仏師になることを目指している。あんなにも仏教が苦手だった私が、正直者は馬鹿を見るとさえ思っていた私がなぜこうも変わったのか。
それはきっと素直な自分の美しさに気づき無意識に自分を正していたからだ。高校に入ってから周りの環境も変わり、柔軟に自分を変えていかなければならなくなった。私は素の自分を愛するようになった。そうした方が明るくなれるからだ。
自分を愛するようになってからは、自分に愛して貰えるよう嘘もつかなくなったと思う。他人に強要はしないが、ここ数年で“嘘”に対する気持ちが変わったような気がする。嘘は自分を守るためのものという認識から、自分を守るために嘘はつかないというふうに。
そのきっかけは高校留学をし、他国の文化の中にいるうちに日本文化の繊細さに気づき、その日本文化の中の仏教の教えを学んだからである。
今思えば和尚さんの教えも尊いもので、幼稚園での経験も悪いものでは無かったのだと思う。何がきっかけなのかはさっぱり分からないが、昔死んでもなりたくないと思っていたものになっているという経験がある人は結構多いのではと私は思っている。
そういうものこそが天命であり使命なのだと私の尊敬する方も言っていた。その使命を果たすのが人生なのだと。だから、その使命を果たすまでは命は尽きることはないのだという。
私にはこの教えがとても尊く感じた。
辛かった時もあった。大袈裟だがなんて恵まれない人生なんだろうと嘆いた時もあった。
そんな悩みをこの言葉は一掃して行ったのだ。
あんなにも苦手だった仏教に助けられる日が来るとは、昔の自分は思いもしなかっただろう。ましてや仏像彫刻を学びたいと考えるなんて誰が思っただろうか。
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私に愛されるために正直に生きる。私を嫌わないために素直になってみる。それだけで何か変わるのではないだろうか。
私の人生は波乱万丈で奇想天外である。これからも何が起きるかは分からない。しかし私はこの世の誰よりも幸せである自信がある。そう思って生きている。
これは私を愛するために自分自身についている、たった一つの世界で一番幸せな嘘である。