今年の夏、推しのバンドが結成50周年を迎える。なんとめでたいことだろうか。

結成日にはイベントも行われるので参戦する…つもりだった。しかし悲しいかな、チケットが取れなんだ。45周年は一緒にお祝いしたのに。その時あまりにも楽しくて、次は50周年と楽しみにしていたのに。5年越しの私の夏の楽しみは白紙になってしまった。
それどころか毎年参加している通常の全国ツアーのチケットも取れない。おそるべしアニバーサリーイヤー。昨年、アーティストの訃報が続いたのも影響しているのかもしれない。

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私の場合、推し活ができないと、推しのことそんなに好きじゃなかったんじゃないかなと思い始める。ライブに行けないというショックに耐えるための防衛本能なのだろう。好きなのに会えないのは辛すぎるから、好きじゃないことにしちゃうのだ。

とはいえ全国ツアーなので、地元のチケットが取れなくても、今から申し込める他の地域のチケットを取って観に行けばいい。「コロナ前ぶりの遠征だ!」と胸踊るかと思ったら、「そこまでして行くほどのことかな」という考えが浮かんだ。そして、そのことにショックを受けた。

ライブが生きがいじゃなかったのか私は。それとも人暮らしになってお金にシビアになったのだろうか。

いや、推しはいつまでも活動してくれるわけではないので、ケチるところじゃないし、いくらでも節約できるポイントはある。お金由来の考えではないだろう。それに私は遠征ついでに観光をするのも好きだったじゃないか。むしろ観光の方がメインの勢いで遠征していた。でも最近、旅に出たい、どこかに行きたいと思わなくなった。

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最初は入院中だった。患者同士、退院したらどこに行きたいという話題になった。

私は何も浮かばなかった。仕事がきっかけで体調を崩し、入院したのだが、入院を機に親が毒親と気づき、家に帰れなくなった状況だった。

その時、私は、帰るところがないから、どこかに行きたいと思えないのだろうと思っていた。しかし、帰るところを作ったも、どこかに行きたいという欲求が少ない。あったとしても生活圏内である。

もしかすると、私は家に居たくなくて旅に出ていたのだろうか。現実逃避としての旅、逃避する現実がなくなったら旅に出る理由も欲求もなくなってしまった。なんとも悲しい理由だが、それがいちばんの正解のような気がする。

そう考えていると推しバンドについても疑問が出てくる。推しバンドが自分たちは親受けの良いバンドだと言っていた。自分たちのライブに行くのだけは嫌な顔をしない親が昔からいると。

私の親もそうだった。私は他のアーティストのライブにも行くが、夜も遅くなるので良い顔はされない。だが、推しバンドのライブだけは嫌な顔をされなかった。大好きな推しのはずなのに、急に親に許された娯楽のようで「大好き」に疑問符が付く。

推しには申し訳ないが、そういう経緯もあって、気持ちよく推せず、積極的に推し活できないのかもしれない。年齢的な趣味嗜好の変化も多少あるのかもしれないが、こんな形で趣味を失うとは思っていなかった。私は何が好きなんだろう。

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モヤモヤが止まらない。

私は買い物でストレスを発散する癖がある。とはいえそれで懐が寒くなり、新たなストレスになると困るので、必ず使う生活必需品を買うようにしている。

以前から可愛いなと思っていた下着を買うことにした。これから汗をかく季節になると、洗い替えがたくさんあって困ることはない。衣類量販店に行き、下着を買った。

なんだか、すごく気分が良い。高級品を買ったわけではないのに。自分に課金すると気持ちが良いことに気がついた。

今は自分を最推しにしてみようかな。推しを愛でるように自分を愛でよう。そうしたら「好き」がわかるようになるかもしれない。推しが暑さに苦しんでいたらかわいそうだ。今年の夏はケチらずにエアコンを適切に使用しよう。