「あのときのうなぎは、本当に美味しかったなあ」
土用の丑の日から半年が経っても、父はずっと、そのうなぎの味を思い出しては、今さっき食べたかのように「美味しかったなあ」と噛み締める。
五十数年間、これまで様々な美味しいものを食べてきたはずの父が、私の店のうなぎをいつまでもそう言うのは、大袈裟だと思いながらもやっぱり嬉しかった。
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私が勤めていた居酒屋では、新型コロナウイルスが流行り始めたと同時に、他の飲食店と同様デリバリーやテイクアウトに力を入れていた。コロナ禍で迎えた二度目の夏、ほとんどの店舗がまだ休業中の状態で新しく始めたのが、土用の丑の日に合わせた鰻重のテイクアウト販売だった。鶏がウリの居酒屋としては、異例の販促だった。
手探りで始まった鰻重の販売。身内や友だち、常連さんやアルバイトに声をかけた中、実家でもふたつ購入してくれることになった。
すでに両親と離れて暮らしていた私は、ふたりが鰻重を食べているところは直接見れなかったし、「美味しかったよ」くらいは言われたと思うがあまり覚えていない。けれどのちに、父がどれほどそのうなぎを気に入っていたかを知ることになる。
父はその数ヶ月後、父の両親にあたる私の祖父母と近所のうなぎ屋さんで鰻重を食べたそうだが、「全然美味しくない」と一喝。「パサパサしている。あのときのうなぎは本当に美味しかったのになあ」と漏らしたそうだ。「せっかく連れて行ったのに」と、祖母は吐き捨てるように文句を言っていたのだが。
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「パパ、癌だって」
母から電話がかかってきたのは、それから2ヶ月と経たなかった。下痢が1日中止まらず、母が散々病院に行くよう強く言って検査を受けたら、癌が見つかった。即入院となり、私たちの日常はあっという間にひっくり返る。入院中は面会できず、衣類をはじめとする生活必需品を渡しに行くだけの日々が過ぎていた。父とテレビ通話したのは、これが初めてだった。
退院が許されて家に帰った父は、ほとんど寝ていたものの元気そうだった。
「また来年あのうなぎを食べれるようにさ、頑張ろうよ」母のそんな励ましに、「そうだなあ」と笑って応える。無事に年を越して、家族3人で回転寿司に行った。それが家族全員、最後の食事だった。
その年の土用の丑の日、母はひとりで私のお店を訪れ、店内で鰻重を食べてくれた。ひとりで食べるには大きい鰻重を半分ほど食べ進めて、「残りは家で食べるわ」と持ち帰った。父と一緒に食べられたのだろうか。
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早めの三回忌を終えた翌週の命日、私はパートナーと母の3人でうなぎを食べに行くことにしていた。
日本庭園を彷彿とさせる入り口を抜けて、数々のサッカー選手の色紙を眺めながら席に着くと、母は紫色の布に包まれた父の遺影を取り出した。「今日、命日で……うなぎが好きだったので……」と遠慮がちに頭を下げながら、目の前に座るパートナーに事情を説明する。
先に私から事情を聞いていたパートナーはそうなんですね、と前置きした上で「本当は5人で食べられるはずでしたもんね」と続けた。パートナーの母も、昨年末に亡くなっていた。
ひとりひとつ、お重に大切そうに収まるうなぎ。ひとりで食べるには大きいな、と思いながら、ゆっくりと完食した。あのときのうなぎには叶わないかもしれないけど許して、と、心の中で父に少しだけ謝ったけれど、それでもうなぎはとても美味しかった。
パートナーは遺影に映るスーツ姿の父を見て、「エビアンにそっくりだね。鼻とか特に」と言って笑った。